しかの山こえにてよめる はるみちのつらき
やまかはにかせのかけたるしからみはなかれもあへぬもみちなりけり (303)
山川に風の架けたる柵は流れも敢へぬ紅葉なりけり
「滋賀の山越えで詠んだ 春道列樹
山川に風が架けている柵は流れ切ることもできない紅葉だったのだなあ。」
「架けたる」の「たる」は、存続の助動詞「たり」の連体形。「敢へぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「紅葉なりけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
京都から滋賀へ出る山越えの道、その中を流れる谷川がある。谷川は散った紅葉で流れを堰き止めるほど埋め尽くされている。人が作った柵なら知っていたけれど、これは風が架けた柵なのだな。初めて知ったよ。
滋賀への山道の中の谷川に溜まった紅葉。それを、「しがらみ」(河の中に杭を打ち込み、木の枝などを絡ませた、流れを食い止めるもの)にたとえている。つまり、それによって、紅葉が水を堰き止めるほどに大量であることとそれへの驚きを表している。
「AはBなりけり」は、「AはBだったのだなあ」という気づきを表す。これは『古今和歌集』の構文の一つである。さて、この場面では、素直に考えれば、Aに当たるのは「流れも敢へぬ紅葉」であり、Bに当たるのが「山川に風の架けたる柵」である。溜まった紅葉を見て柵のようだと思うのである。しかし、作者はそれではインパクトが足りないと考えた。そこでAとBを逆転した。最初に「山川に風の架けたる柵は」と主題を提示する。この「は」は、既知の事実を表す「は」である。「ある所にお爺さんとお婆さんが住んで居りました。お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行きました。」と言う時の「は」である。(「お爺さんとお婆さんが」の「が」は未知の事実。「は」は既知の事実を示す。)すなわち、ここではいきなり「山川に風の架けたる柵は」とそれを既知の事実として提示している。すると、読み手は、「山川に風の架けたる柵」などという言葉を初めて聞いたとしても、そういうものがあるのだなと思ってしまう。そして、それでは、それは何かと答えを求める。だから、次にそれが溜まった紅葉だと示されると、素直に「なるほど」と納得してしまう。作者は、この心理を利用して、この歌の印象を強めている。つまり、この歌は作者による「山川に風の架けたる柵」の新たなる定義の提示なのである。
コメント
川底に溜まって流れきれないくらい、そして川の水の流れを堰き止めてしまうほど大量の紅葉が水を真っ赤に染めている情景が目に浮かびます。しんとした静寂の中に、水の流れる音と、葉が風に揺られてざわざわしている音だけが聞こえてくるようです。
ここでの 流れも敢えぬ は、大量すぎて水に流れきれない紅葉と、紅葉に堰き止められて流れることが出来ない川の水、両方が掛けられているのでしょうか。
主題を逆にして強調する。つまり、(業者に頼めば良いものをわざわざ自分で)山へ芝刈りに行ったのはお爺さん、(洗濯機があるのに)川へ洗濯に行ったのはお婆さんという風に。なるほど、テクニックですね。
視覚だけでなく、聴覚にも気を配ったいい鑑賞です。しがらみは、水を堰き止めるものですから、大量の紅葉によって水が堰き止められているのです。
「主題を逆にして強調する」以下のコメントですが、私の説明が不十分で、誤解を生んでしまいました。ごめんなさい。訂正しておいたので、もう一度お読みください。
第一段階「風の架けたる」で何だろう?と思わせつつ、第二段階「柵」は誰でも知っているのでここで一旦、既知の柵を思い浮かべますね。そこからの第三段階「流れも敢えぬ紅葉」、谷川の流れを堰き止めてしまう程の圧倒的な紅葉のこの量感。人の手のものでない「柵」にここで納得させられてしまいます。
谷川の流れの様子を詠んだのでしょうけれど、「滋賀の山越え」は難儀したのでしょうか、「柵(しが+絡み)」と掛かっているようにも見えて、「流れも敢えぬ」の「も」は山道を進もうとする詠み手も紅葉に道を阻まれたのではないかと思いました。
滋賀に「しが(らみ)」が掛かっていて、その山越えが紅葉に阻まれて難儀するというご指摘、納得しました。私はそこまで考えず、詞書は単にリアリティを感じさせるためのものとばかり思いました。『古今和歌集』ですから油断がなりません。ありがとうございました。
『国語教室』仕込みです(笑)!先生のご指導の賜物です。
ここで学ぶまで、詞書のこと意識した事がありまんせんでした。
『国語教室』は、生徒と教師とが学び合う場ですね。私も教えられています。