これさたのみこの家の歌合のうた としゆきの朝臣
わかきつるかたもしられすくらふやまききのこのはのちるとまかふに (295)
我が来つる方も知られずくらぶ山木木の木の葉の散ると紛ふに
「是貞の親王の家の歌合の歌 敏行の朝臣
私が来た方向も知ることができない。くらぶ山が暗いのと木々の木の葉が散るのとがごちゃごちゃになっているので。」
「来つる」の「つる」は、意志的完了の助動詞「つ」の連体形。「知られず」の「れ」は、可能の助動詞「る」の未然形。「ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。ここで切れ、以下は倒置になっている。「紛ふに」の「に」は、接続助詞で原因理由を表す。
昼でも暗いくらぶ山をやって来た。くらぶ山がただでさえ暗い上に、木々の木の葉が頻りに散り続けているので、見通しが利かない。そのため、私は一体どっちから来たのかも、これからどっちに行くのかもわからなくなってしまった。
川の紅葉の歌が続いたので、山の紅葉の歌を挙げる。291の歌も「山の錦」を詠んでいるけれど、それは傍目から見た印象である。それに対して、この歌は自らが山に分け入っての実感である。くらぶ山の暗さと落葉の激しさとを目を塞ぐほどだと、誇張表現によって表している。
コメント
華やかな色彩に目は向きがちですが、その彩の後、一斉に葉を落とすくらぶ山の落葉そのものに着目したのですね。
それでなくても暗い山だというのに、来し方すら見分けがつかなくなってしまうくらいに木の葉で埋め尽くされてしまった。降り積もる落ち葉で行く方も、空間までもが木の葉で隠され、雪山のホワイトアウトの如く方向を見失ってしまう。この暗さが暮れ方の暗さなのか、もしかしたら山そのものが全て木の葉で出来ているのではないかという程の落葉の量感。詠み手の実感が肌感覚で伝わってきます。
視野を覆わんばかりに散り続ける落ち葉。しかも、ここは昼なお暗い「くらぶ山」。その情景と心情とが伝わってきますね。「詠み手の実感が肌感覚で伝わってきます。」に納得しました。
くらぶ山に、(暗く)暮れていく山 を掛けるのはアリですか? 少々無理やりですよね。
それにしても、鮮やかに煌めく錦の紅葉と暗闇に散って行く紅葉の落ち葉。対照的ですね。
「くらぶ山」は、京都市左京区にある鞍馬山の古名です。また、単に暗い山も意味しました。ここは、両方が掛かっているのでしょう。当時の人は「くら」ということで「暗い」を感じたはずです。だから、鞍馬山も当然暗い山と意識されていました。決して無理矢理ではありません。
ここでは、暗闇ですから色彩よりも落ち葉の量が意識されたのではないでしょうか。