うりむゐんの木のかけにたたすみてよみける 僧正へんせう
わひひとのわきてたちよるこのもとはたのむかけなくもみちちりけり (292)
侘び人の分きて立ち寄る木の本は頼む陰無く紅葉散りけり
「雲林院の木の陰に佇みて詠みける 僧正遍昭
侘び人が特に取り分けて立ち寄る木の本は、頼る陰が無く紅葉が散ったことだなあ。」
「侘び人の分きて立ち寄る木の本は」の「は」は、長い修飾語を伴う「本」が主語であることを示す。「散りけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。この歌には、句切れがない。
世を侘びて寂しく暮らす人である私は、特に選んで立ち寄る木がある。その木の本に佇んで侘しさを癒やすためだ。ところが、頼りとする物陰が無いまでに紅葉が散ってしまったことだなあ。これからは何を頼りにすればいいのか。
雲林院は桜の名所であるから、この木は桜であろう。作者は、この木の本に佇み、春には花を愛で、夏には葉陰に涼み、秋には紅葉を楽しむ。この木は、雲林院にある沢山の桜の木の中で、特に作者のお気に入りの木なのだ。それは、侘び人である作者の心を癒やしてくれるよすがであったからだ。ところが、秋が深まり、その紅葉までもが散ってしまう。それが作者の心を一層侘しくさせる。その思いを詠んでいる。その一方で別の含みも感じられる。雲林院は淳和天皇の離宮を天皇の出家後作者が譲り受けたものである。ならば、「頼む陰無く」は、天皇の庇護が無くなる頼りなさを暗示しているのだろう。
仮名序には、「僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。」とある。ここからすれば、自分を「侘び人」と言い、落葉を「頼む陰無く」と捉えるのは、歌としての体裁は整っているけれど、本心からの表現ではないような気もしてくる。
コメント
俗世を捨て隠遁生活をしようと山へ分け入る人。一休みする木の下は造る影も無く紅葉として散ってしまった事だなぁ。求道への道の厳しさ、俗世から隔絶される寂しさみたいなものを詠んだのかと思いましたが、「わきて」は特にお気に入りの、なのですね。
詞書を見ると「侘び人」は僧正遍昭。紅葉の頃も過ぎて木々の彩りも失われていく様を詠んだのかと思いきや、自身の庇護を失った心許ない様子をなぞらえるとは。共感し切れないのは目の前の景色より僧正自身に意識の向いた歌だからでしょうか。
詞書きに「雲林院の木の陰に佇みて」とありますから、言わば、遍昭にとっては、自分の家の庭の中でことでしょう。侘び人である私には、紅葉が散っていくのが一層侘しく感じられると言うことですね。今一つ普遍性が感じられませんね。