題しらす よみ人しらす
こひしくはみてもしのはむもみちはをふきなちらしそやまおろしのかせ (285)
恋しくは見ても偲ばむ紅葉葉を吹きな散らしそ山颪の風
「恋しくなったならば、見ても偲ぼうと思う紅葉葉を吹き散らしてくれるな、山颪の風よ。」
「恋しくは」の「恋しく」は、形容詞「恋し」の連用形。「は」は、係助詞で仮定を表す接続語を作る。「偲ばむ」の「む」は、意志の助動詞「む」の連体形で「紅葉葉」に掛かる。「な散らしそ」の「な」は、打消の語と呼応する副詞。「そ」は、禁止の終助詞。動詞の連用形を挟んで、全体で「・・・てくれるな」の意を表す。ここで切れる。「山颪の風」は、呼び掛け。
秋という季節にまつわる何かが恋しくなったら、せめて紅葉の葉を見て偲ぼうと思う。紅葉葉は、そのよすがなのだ。なのに、激しく山颪が吹き下ろし、紅葉葉が次々に散っていく。どうか紅葉葉を散らさないで欲しい。散ってしまったら、私は何を手掛かりにして秋を偲べばいいのだ。
紅葉葉を散らせるものは、時雨の他に風もある。しかも、今吹いている風は、山颪である。そこで、山颪に散らしてくれるなと請う。紅葉葉を散らされては困る訳があるからだ。作者には、恋しいものがあり、紅葉葉を見て偲びたいのである。それを言うのに、恋しさの対象を示さずに、いきなり「恋しくは」で始めている。読者に疑問を持たせ、読者を歌の中に引き込むためである。次に、その対象が「紅葉葉」によって「見ても偲ぶ」ものであることを言う。ここに到って、読者は、対象が秋にまつわる何かであることを知る。しかし、それにしても、作者は敢えて限定せず、漠然としたままにする。秋という季節そのものかも知れないし、秋にした恋かも知れない。何かは読者の想像に任せている。いずれにせよ、「紅葉葉」は、そのよすがなのである。「紅葉葉」には、こんな役割もあるのだ。
コメント
アルバムの写真を見るように、ひと葉ひと葉にそれぞれの趣があり、それを見るにつけ思い起こされる記憶。それを山おろしの風が吹き散らしてしまう。何を「恋しく」思うのか示さない事で、読み手は如何様にも思いを馳せる事ができますね。紅葉が言の葉だったなら、吹き散らされてその気持ちも言い表せなくなってしまう。やがて来る冬を山おろしの風は引き連れてくるようで、その物寂しさに尚更「恋しさ」が募ります。
紅葉の様々な色の葉は、様々な思い出と結びついているのでしょう。それが恋しい気持ちを慰めてくれます。なのに、それが無くなったら、何を手掛かりにすればいいのでしょう。恋しさは募るばかりですね。