《見えぬ紅葉》

やまとのくににまかりける時、さほ山にきりのたてりけるを見てよめる きのとものり

たかためのにしきなれはかあききりのさほのやまへをたちかくすらむ (265)

誰がためのの錦なればか秋霧の佐保の山辺を立ち隠すらむ

「大和国に行った時、佐保山に霧が立っているのを見て詠んだ  紀友則
誰のための錦であるから、秋霧が佐保山の辺りを覆い隠しているのだろうかなあ。」

「錦なればか」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「か」は、係助詞で詠嘆を含む疑問を表す。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「立ち隠すらむ」の「らむ」は、原因推量の助動詞の連体形。
大和国に行ったところ、佐保山が霧に隠れて見えない。秋霧の白いベールに包まれた佐保山。霧の向こうには、錦に見紛う紅葉があるはず。一体誰がそれを独占しているのだろう。何とも残念でならない。
佐保山は紅葉の名所なのだろう。その美しさを「紅葉」を出さずに「錦」という言葉で暗示している。その紅葉を見ることができない残念な思いを表している。と同時に、見えない美しい紅葉を想像させている。さて、佐保山には、佐保姫がいる。佐保姫は、春を支配し春霞を織り出す女神だ。一方、秋霧は秋を支配する竜田姫の守備範囲である。だから、竜田姫が「紅葉は私のものよ」と意地悪をして、美しい紅葉を隠し、独占してしまっただろう。作者は、読み手にこんな物語を想像させている。見えないものは、想像力を刺激する。作者も秋霧のように言いたいことを隠している。

コメント

  1. すいわ より:

    秋霧に包まれてしまって折角の紅葉が見られないのが何とも残念。どうやってこの気持ちを収めたものか。
    佐保姫と竜田姫、納得しました。佐保姫、春の神様ですものね。
    佐保山が綺麗綺麗って、秋の錦を染めたのは私なのに、佐保は春の霞でも染めていれば良い。秋霧で佐保山を隠してしまえば私を見てくれるかしら?
    佐保山は奈良の都の東、竜田山は西というのも春と秋を意識しているのでしょうか。面白いですね。

    • 山川 信一 より:

      折角の紅葉が見られない思いが想像力を刺激したのですね。物語を生み出すのは、こうした物足りなさのようです。

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