《極上の美》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた  よみ人しらす

ちらねともかねてそをしきもみちははいまはかきりのいろとみつれは (264)

散らねども予てぞ惜しき紅葉葉は今は限りの色と見つれば

「寛平御時后の宮の歌合の歌  詠み人知らず
散ってはいないけれど、散らない先から惜しくてたまらない。紅葉葉は今は極上の美しい色合いをしているので。」

「予てぞ惜しき」の「ぞ」は、強調の係助詞で、係り結びとして働き、文末を連体形にする。「惜しき」は形容詞「惜し」の連体形で、ここで切れる。以下は倒置になっていて、その理由を述べている。「今は」の「は」は、係助詞で取り立ての意を表す。「見つれば」の「つれ」は、意志的完了の「つ」の已然形。
眼前の紅葉がこの上なく美しい色合いをしている。それを見ていると、散ってしまうのが惜しくてならなくなる。なぜなら、これは今だけのものであって、今を過ぎれば、後は散っていくばかりであるのだから。
作者は、美しい色合いの紅葉を眺めている。その美しさは、作者にこの上ないと思わせる。ところが、作者は素直にそれを堪能できず、不安を抱いてしまう。なぜなら、今が最高で、今を過ぎれば衰え散っていくだけだと思ってしまうからだ。「見つれば」の「つれ」が作者のこの少し屈折した思いを表している。作者は、こうした思いによって紅葉の極上の美しさを表現したのである。

コメント

  1. すいわ より:

    散ってしまうことが分かっているからこそ、失われてしまうことを知っていればこそ、美しさの頂点である「今」を手放しで喜ぶことが出来ない。この刹那の美しさを切り取って歌にするのですね。刻々と変わる景色、たった一日違っても別の景色として歌がまた生まれる。自然に注がれる眼差しは、どんな一瞬も見逃さないのでしょう。見習いたいです。

    • 山川 信一 より:

      作者は、紅葉は今が極上であると見極めているのですね。それは紅葉への深い愛情と繊細な審美眼がなければできません。だからこそ、その美に惹かれつつも、心からそれに酔うことができず、散ることを怖れてしまうのでしょう。この裏腹な心理を見事に捉えていますね。

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