第二百三十一段  嫌みなわざとらしさ

 園(その)の別当入道は、さうなき庖丁者なり。ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道さる人にて、「この程百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。まげて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、ある人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、おのれはよにうるさく覚ゆるなり。切りぬべき人なくは給べ。切らんと言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
 大方、ふるまひて興あるよりも、興なくてやすらかなるがまさりたる事なり。まれ人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、誠によけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と言ひたる、まことの志なり。惜しむよしして乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことつけなどしたる、むつかし。

「園家の別当入道は、類い希なる料理人である。ある人のところで、素晴らしい鯉を出してあったので、誰もが別当入道の庖丁さばきを見たいと思うけれど、気軽に言い出すのもどうだろうとためらったのを、別当入道は、さっしのいい人で、『この頃、百日間鯉を切りますので、今日欠かす訳にはいきません。是非ともこの鯉を戴きとうございます。』と言ってお切りになったのは、素晴らしくその場にふさわしく、面白みがあると人々が思っていたと、ある人が北山太政入道殿にお話申し上げなさったところ、『このような事は、自分には甚だ煩わしく感じられるのだ。切るにふさわしい人がいないなら、私にくれてやってください。切りましょうと言っているなら、ずっとよかっただろう。何だって、百日の鯉を切ろうと言うのか。』とおっしゃったのは、おもしろく感じられたと、ある人がお話になったのは、たいそう面白い。
 だいたい、企んで面白みがあるよりも、面白みが無くて心やすらかな方が勝っているものである。客人へのご馳走なども、次第・機会を面白いように取り繕っているのも、誠によいけれど、ただ、何と言うこともなくて取り出しているのは、非常に結構だ。人に物を与えるのも、これといった特別な理由無しに、『これを差し上げましょう。』と言っているのが本当の好意である。惜しむふりをして相手から欲しいと言われようと思い、勝負事の負けの賭物にかこつけなどしているのは、いやらしい。」

社交のあり方について次のように言う。相手に気を遣いすぎてあまり技巧的になるべきではない。わざとらしくてかえって嫌みになることがある。それより率直に振る舞う方が互いに気を遣わなくていい。なるほど、思いやりから出た言動でも、技巧的すぎると真意がどこにあるのか、わからなくなってしまうことがある。それでは、かえって思いが伝わらない。技巧もほどほどにしたい。もっとも、このことは社交に限らず、表現一般にも当てはまる。何にせよ、表現は技巧のための技巧に陥らないようにしたい。技巧は、あくまで真意・誠意を伝えるために効果が認められる場合にのみ用いるべきである。しかし、その見極めは難しい。率直が効果的でないことも多々ある。一律には言えない。要は、ケースバイケースである。
では、この主張を語る、この段の文章はどうだろうか。園の別当入道の話は、何重もの又聞きでややこしく、技巧的で、かなりわざとらしい。兼好はこれを効果的だと思っているのだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    何だか珍しくごちゃごちゃして読みにくいと思ったら「技巧的でわざとらしい」文章にして「ほらね、効果的とは言えないでしょ」と言いたかったのでしょうか。ならば納得。
    園の別当入道の言動がそこまで嫌味な行動とも思いませんでした。おそらくその場の人達もこうなるであろう事も織り込み済みでこのパフォーマンスも準備されていたのでは。北山太政入道の口からこの事を批判してはいるけれど、兼好自身がこうした行動に批判的なのでしょう。
    社交に関しては本当にケースバイケース、同じ事を言ったとしても相手がどう捉えるかによって全く違う心象になりますね。

    • 山川 信一 より:

      物事は、見方を変えればいかようにも言えるものですね。気が利いていると思われることでさえ、ケチを付けようと思えば付けられる。園の別当入道の例はその典型ですね。あらゆる面点に於いて優れているものも劣っているものも無いと言うことでしょう。人の評価に一喜一憂すべきではありませんね。

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