《主役は秋萩》

むかしあひしりて侍りける人の、秋ののにあひて物かたりしけるついてによめる みつね

あきはきのふるえにさけるはなみれはもとのこころはわすれさりけり (219)

昔逢ひ知りて侍りける人の秋の野に逢ひて物語しけるついでに詠める  躬恒
秋萩の古枝に咲ける花見れば本の心は忘れざりけり

「昔お付き合いをしておりました女性が秋の野で私と逢って話をした折に詠んだ 凡河内躬恒
萩の古い枝に咲いている花を見ると、本の心は忘れないことだなあ。」

「咲ける」は、咲いているという存続の意。「見れば」の「ば」は、接続助詞で、偶然的条件「たまたま・・・したところ」を表す。「忘れざりけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。その事に気が付いて感動する意を表す。
昔付き合っていた人と、逍遙する秋の野で偶然に再会し話をする。その折に、咲いている萩を見て思いを歌にする。こうして古い枝に咲いている萩の花を見ると、花は本来の心を忘れないようだなあ。あなたはお忘れのようだが・・・。
この歌は、心変わりした女への皮肉として詠んだようにも取れる。秋萩はあなたと違って、本来の心を忘れずに、毎年咲く。しかし、あなたは本の心を忘れてしまったのですねというふうに。もちろん、その思いがない訳ではないだろう。しかし、それはそれほど切実な思いではない。「ついでに」詠んだのだから。むしろ、こう言うことが再会した女への礼儀、挨拶なのだろう。
したがって、あくまで主役は秋萩である。女とのいきさつはそれを引き立てるための脇役である。萩がこうして去年と同じように咲くことは、決して当たり前ではないのだ。それは、変わってしまう人の心と比べればよくわかる。その健気さ、有り難みをしみじみと感じると言うのである。

コメント

  1. すいわ より:

    思いがけない再会、他愛もない話をし、別れ際に歌を詠む。「ひと頃の熱は冷めて秋萩の咲く頃となった。古枝(思い出)に咲く花(貴女)を見ると、相変わらず美しいままだなぁ」表向きのリップサービス。でも本心は?
    「本の心」というところが意味深。あの時の気持ちは確かなものだった。でも、話していてかつての情熱が感じられなかった、のでしょう。思い出は美しい。でも、どんなに古い枝にも忘れる事なく咲く萩のようには貴女は私を思い続けてくれてはいなかった、といったところでしょうか。「ついでに」の一言で、再会した時と立ち去る時の熱量の差が伝わってきます。

    • 山川 信一 より:

      女への思いを言い当てていますね。ただ、問題は、この歌が秋の巻に入っていることです。そのコンテクストで読まなければなりません。人事を自然に託して語ることはよくあります。しかし、この歌はその逆であって、自然を人事に託して語っています。昔の女にこんな歌を詠んでしまうような秋萩なのだと言うのです。言わば、秋萩の影響力=魅力を表しています。そこにこの歌のオリジナリティがあります。

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