たとへば、碁をうつ人、一手もいたづらにせず、人にさきだちて、小を捨て大につくが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石につくことは易し。十を捨てて、十一に付く事は難し。一つなりともまさらんかたへこそつくべきを、十まで成りぬれば、惜しくおぼえて、多くまさらぬ石には換へにくし。是をも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、是をも失ふべき道なり。
京にすむ人、いそぎて東山に用ありて、既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。ここまで来つきぬれば、この事をば先づ言ひてん。日をささぬ事なれば、西山の事は、帰りて又こそ思ひ立ためと思ふ故に、一時の懈怠、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをもいたむべからず。人の嘲りをも恥づべからず。万事にかへずしては、一の大事成るべからず。
人の数多ありける中にて、ある者、「ますほの薄、まそほの薄などいふ事あり。わたのべの聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある、貸し給へ。かの薄の事習ひに、わたのべの聖のがり尋ねまからん」と言ひけるを、「あまりにも物騒がし。雨やみてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゆしくありがたう覚ゆれ。「敏きときは則ち功あり」とぞ、論語と言ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
一大事の因縁:仏道に入って、悟りを開くきっかけ。
「たとえば、碁をうつ人が一手も無駄にしないで、人に先んじて、小利を捨て大利につくようなものである。その場合、三つの石を捨てて、十の石を取る手につくことは易しい。十を捨てて、十一に取る手につくことは難しい。一つであってもまさっている方にこそつくべきなのに、十までに成ってしまうと、惜しく感じて、たいして利が多くまさっていない石には換え難い。結局、これも捨てず、あれも取ろうと思う心から、あれも取れず、これも失うことになる道なのである。
京に住む人が急いで東山に用があって、既に行き着いているとしても、西山に行ってその利益にまさることを思いついたならば、門から帰って西山に行くべきである。ここまで行き着いてしまったので、この事をまず言ってしまおう。日を指定しないことなのだから、西山のことは、帰ってから、また思い立つことにしようと思うため、一時の怠りが、すなわち一生の怠りとなる。これを恐れるべきだ。一つの事を必ず成そうと思うなら、他の事ができなくなるのをも嘆いてはいけない。人の嘲りも恥じてはいけない。
すべてと引き換えにしなくては、一つの大事が成就することはない。人が沢山いた中で、ある者が『ますほの薄、まそほの薄など言うことがある。渡辺に住む聖がこの事の伝授を受けて知っている。』と語ったのを、登蓮法師が、その場に居りましたが、それを聞いて、雨が降った時なのに、『蓑と笠はあるか、お貸しください。あの薄の事を習いに、渡辺の聖の元に訪ね参ろう。』と言ったのを、『あまりにも慌ただしい。雨が止んでから行けばいいのに。』と人が言ったので、『最低のことをおっしゃるものだなあ。人の命は、雨の晴れ間を待つものだろうか、そんなことはない。我も死に、聖も失せてしまったら、尋ね聞き果たせましょうか、できないではありませんか。』と言って、走り出でて行き行きして、習ひましたと言い伝えておりますことこそ、畏まるほど有り難く感じられた。『敏捷に事を行う時には、成功する。』とこそ、論語と言う書物にもございますそうです。この薄を知りたいと思ったように、仏道に入って、悟りを開くきっかけのことを思うべきであった。」
この段の最後にある「この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける」まで読むと、この話が法師に向けて言っていることがはっきりする。前の部分に「この法師だけではない。世間の人はすべてこのことがある。」と話を一般化し、ここでは囲碁、所用、知的関心などの具体例を挙げて繰り返し繰り返し説いている。しかし、やはり、一般論が本体では無いようだ。当時の法師は、これぐらい言ってやらねばならないほど、堕落していたことがわかる。兼好は、法師になるとは、これほどの覚悟がいると言いたいのだ。法師になるという目的が定まっているなら、それに専念するのがもっとも優れた方法である。ただし、こういう目的達成型の生き方そのものが唯一正しい生き方かと言えば、それには大いに異論があろう。この考えが何事についても当てはまるとは言いがたい。
コメント
なるほど、前回からの続きで身近な話題を持って来ることで一般読者に共感してもらって心を掴み、最終的に兼好の一番主張したいところへと誘導されている感じがします。巧みですね。一般論を挟む事で一旦緩めて最終的に「論語」という後ろ盾も付けて仏道を志すにあたっての心構えを説いています。「法師」のあるべき姿を一般に示して外濠を埋める、一般人の「目」という監視装置を機能させようとしたかのようにも思えます。
でも、見張られて仕方なくそうする、というのでは本末転倒、結局、生き方はその本人にしか決められませんけれど。
碁の話を持って来るあたり、法師達、勉強より遊びに興じていたのでしょうね。
「一般人の「目」という監視装置を機能させようとした」、そう思えます。同感です。読者に想定しているのは、あくまで法師。でも、一般人がこれを読んでくれれば、そう働きますね。手を替え品を変え・・・。法師はなかなか手強そうです。
確かに、囲碁の話からは、法師たちの有様が想像できますね。