或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説教などして世わたるたづきともせよ」と言ひければ、教へのままに、説教師にならんために、先づ馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事ののち、酒などすすむる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習ふべき隙なくて、年寄りにけり。
早歌:宴席での歌曲。中世の歌謡の一つ。
「ある者が子を法師にして、「学問をして因果応報の理も知り、教文を説くなどして世渡りの手段にしろ。」と言ったので、親の教えのままに、説教師になるために、まず馬に乗る練習をした。輿や車は持たない自分が導師として招かれた時、馬などを迎え寄こしたら、その時に、据わりの悪い尻で馬から落ちたとしたら、いやであるに違いないと思った。次に、仏事が済んだ後で、酒など勧めることがあるとしたら、その時に、法師がまったく芸無しであるのは、施主が興ざめに思うに違いないと思って、早歌ということを習った。二つの技能が次第に面白くなったので、ますます上達したいと思って稽古に励んでいるうちに、説教を習うはずの暇がなくなって、年を取ってしまった。」
法師になるには何が肝心かを見誤った者の話である。人が使える時間には限りがあることを忘れてはならない。目標を定めたら、第一に何をすべきか、何が本質かを見極めねばならない。瑣末なことに囚われていると、肝心なことをする時間がなくなってしまう。兼好は、こう説いている。話は具体的であり、ここまでくると、滑稽ですらある。しかし、作り話であるにしても、読み手に有り得ると思わせる真実みがある。ところが、これが自分のこととなると見えてこない。多くの人が同じようなことをしている。
では、なぜこんなことになるのか。それは、目標が人から与えられたものだからだ。この男は、もともと法師になりたかった訳ではないのだろう。だから、まず第一に説教を学ぶという考えが出てこない。ならば、大事なことは、自らが目標を設定することだ。ただし、その場合、目標に達するまでにすべき行動を、本当に自分がしたいかどうかが決め手になる。説教をしたくないのに、法師になろうとすること自体に無理・矛盾があるからだ。具体的な行動あっての目標なのだ。
しかし、こうした目標と行動のずれた人間はどこにでもいる。たとえば、教科指導を脇に置いて、部活動や行事の指導に励む教師もそれである。スポーツトレーナーかツアーコンダクターになればいいのである。
コメント
子を思って親は法師になる事を勧めたのでしょうけれど。本当にその子の為を思うのなら、やる事は道を引く事でなく、その子を見て、沢山の道を示す事なのでしょう。そしてそれらの中から子供本人が選ぶ能力を付ける手助けをするのが親の役割。先生も仰るように、子供、自分で法師を目指していた訳ではない、的外れの「的」がそもそもないのだからこうなるのも目に見えています。なんとも滑稽。でも、「法師になりなさい」と言われて思い描いた法師像が子供の目から見てこうだった、というのが一番滑稽かもしれません。
そもそもその子のお手本になる法師が現実に存在しなかったのでしょう。それは、『徒然草』のこれまでの記述からも明らかです。だから、その子はこんな的外れなことをしでかしたのです。思い描いた法師像がこれだったからです。だとすれば、兼好の批判は、法師にあったのかも知れませんね。お前たちは、子どもにこんな的外れの法師像を描かせているのだと。