貝をおほふ人の、我がまへなるをばおきて、よそを見わたして、人の袖のかげ、膝の下まで目をくばる間に、前なるをば人におほはれぬ。よくおほふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかりおほふやうなれど、多くおほふなり。碁盤のすみに石をたててはじくに、向ひなる石をまぼりてはじくは、あたらず。我が手許をよく見て、ここなる聖目を直ぐにはじけば、立てたる石必ずあたる。
万の事、外に向きて求むべからず。ただ、ここもとを正しくすべし。清献公が言葉に、「好事を行じて、前提を問ふことなかれ」と言へり。世を保たん道もかくや侍らん。内をつつしまず、軽く、ほしきままにしてみだりなれば、遠き国必ず叛く時、はじめて謀を求む。「風にあたり、湿にふして、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり」と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁をやめ、恵みをほどこし、道を正しくせば、その化遠く流れん事を知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師(いくさ)を班(かえ)して、徳を敷くにはしかざりき。
貝をおほふ:貝合わせ。遊戯の一種。三百六十個のハマグリの貝殻を両片に分け、片方の貝を並べ、他方の貝を一個ずつ出して、それと合う貝を多く選び取った者を勝ちとする。
碁盤:碁石を使った弾棊(だんき)と呼ばれた遊び。
聖目:碁盤の目。
清献公:中国宋時代の人。
禹:中国太古の聖王。
三苗:南方の蛮族。
「貝を覆う人が自分の前にある貝をさしおいて、他を見わたして、人の袖のかげや膝の下まで目をくばる間に、自分の前にあるのを他の人に覆われてしまう。上手に覆う人は、他の人の所まで無理に取るとは見えないで、近い範囲だけ覆うようだけど、沢山覆うのだ。碁盤の隅に石を置いてはじく時に、向いにある石をじっと見つめてはじいては当たらない。自分の手許をよく見て、直ぐ前にある聖目を真っ直ぐにはじけば、置いてある石は必ず当たる。
何事も、他に向かって求めてはいけない。ただ、ここにある自分を正しくするのがよい。清献公の言葉に、『好い事を行って、先の事は問題にしてはならない。』と言っている。世を保つ道も同様でございましょう。国内の政治に気を払わず、軽く好き勝手にしてだらしがないと、遠い国が必ず背く時に、初めてどうしたらいいかを相談する。『風に当たって、湿気のあるところに寝て、病気の平癒を神に願うのは、愚かな人である。』と医書に言っているの同じようなものだ。目の前にいる人の心配事を無くしてやり、恵みを施し、政道を正しくするならば、その感化が遠くまで流れることを知らないのだ。禹が行って三苗を征したことも、軍を返して徳政を敷くのには勝らなかった。」
人は、他から何かを得ようとしたり、今ここに無いものに気を取らわれたりしがちである。しかし、それは誤りであって、今自分が関わっていることを大切にするべきである。つまり、自分を修めることに努めるべきなのだ。それが延いては他へも及ぶからだ。逆に、自分を疎かにすれば、かえって多くを失う。
このことを、貝や碁石の遊びなどの卑近な例から偉人や医書の権威ある言葉及び史実まで幅広く例を挙げ、説得力を持たせている。このあたりの論法はいかにも兼好らしい。
我々は、時として今ここに無いものに憂いを抱くことがある。なるほど、将来への準備や展望は必要ではある。しかし、それが今の自分を疎かにすることに繋がってはいけない。我々は今ここに生きるしかないのだから。ちなみに、この主張は「隗より始めよ」の考えにも通じる。
コメント
まるで青い鳥、夢見て遠くまで探し求めて実は大切なものは自分のごく近くにあった。大きなものに目を奪われて細部が疎かになる事、ありがちですね。身近な実感しやすい例で関心を引き付けて、社会的な大きな事例へ話を持って行く書き口が巧み。
大局を見極めるのは大事、でも、遠くを見渡してばかりで足元、達成の為の基礎固めが疎かになったら出発すら出来なくなってしまう。
世界との距離が近くなって、何でも手が届くような気持ちになっている現代人、古典から学ぶ事、沢山ありそうです。
「先ず隗より始めよ」、お時間がありましたら解説お願い致します。
確実に足下を固めることが大切ですね。私は次のような教えを聞いたことがあります。「大説ではなく、小説を述べよ。」瑣末で身近なことに目を向けるべきであり、そうすれば、自ずから広がりを見せるということです。
「先ず隗より始めよ」は『戦国策』にあります。「もし王様が、今優れた人材を広く集めたいなら、まず私(隗)のような取り柄もない人間を重用すべきです。その評判がたてば、もっと優れた人材は、自ずから集まってくる。」という話です。すべきことは、身近にあります。