寛平御時きさいの宮の歌合のうた 紀とものり
よやくらきみちやまとへるほとときすわかやとをしもすきかてになく (154)
夜や暗き道や惑へる郭公我が宿をしも過ぎがてに鳴く
「宇多天皇の御代、皇后温子様が主催された歌合わせの歌 紀友則
夜が暗いのか道に迷ったのか、郭公は、我が家を通り過ぎることができずに鳴く。」
「夜や暗き道や惑へる」の「や」はどちらも、係助詞で疑問を表す。文末の「暗き」も「(惑へ)る」も係り結びにより連体形。二文が並列されている。「郭公」は「夜や暗き道や惑へる」と「我が宿をしも過ぎがてに鳴く」の主語になっている。「しも」は強意の副助詞。
夜中に郭公が我が家の庭で鳴いた。鳴く場所は他にもいくらでもありそうなのに、なぜ殊更ここで鳴くのか。(その思いを「しも」で表している。)その理由は、夜が暗くて動けないからか、道に迷ってどこにも行けないからか。いずれにしても、我が家はお前のいるところではない。それでは、五月闇の中、この家に閉じ込められ鬱陶しい思いに駆られている自分と同じではないか。郭公はどこにでも自由に行かねばならない。不自由さを感じさせる郭公は郭公じゃない。こんなことろで鳴いていてはいけない。
作者は、我が家の庭で鳴く郭公の鳴き声に共感できない。今の気分にそぐわないからである。どこか他に行って欲しいと思う。人は鳥の鳴き声にいつでも共感できるわけではない。時に違和感を覚えることもある。そんな思いを詠んだ。
コメント
「さみたれにものおもひをれは」の歌と対照的に郭公が自分の元から飛び立ってくれない。こちらの歌も夜。紀友則は長梅雨に余程悩まされ、どこでもいいから、ここから解放されたい、暑い夏が嫌でも明るさの中に郭公が導いてくれたらいいのにと思ったのでしょう。
この歌はやはり前の歌とセットで捉えるべきでしょう。単独ならば、別の読み方もできるかも知れませんが、やはり自由がテーマになっているようです。
その反面、今がいかに鬱陶しいかがわかります。この歌も夏の夜の季節感を表しています。