家にありたき木は、松・桜。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ、八重桜は異様の物なり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、又すさまじ。虫のつきたるもむつかし。梅は白き、薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲きあひて、覚えおとり、けおされて、枝にしぼみつきたる、心憂し。「一重なるが、まづ咲きて散りたるは、心疾く、をかし」とて、京獄入道中納言は、なほ一重をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり。柳、又をかし。卯月ばかりの若楓、すべて万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも木はもの古り、大きなるよし。
草は、山吹、藤、杜若(かきつばた)、撫子。池には蓮。秋の草は、荻、薄、桔梗、萩、女郎花、藤袴、紫苑、吾木香、刈萱、竜胆、菊。黄菊も。蔦、葛、朝顔、いづれもいと高からず、ささやかなる、墻に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なる物、唐めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず。
おほかた、なにもめづらしくありがたき物は、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうのもの、なくてありなん。
京獄入道中納言 :藤原定家。京極に屋敷があった。
左近の桜:紫宸殿の南階下の東側に植えた桜。⇔右近の橘。
「家にありたい木は、松・桜。松は五葉も良い。桜の花は一重なのがいい。八重桜は奈良の都にだけあったのを、この頃は、世に多くなるようです。吉野の桜、左近の桜は、皆一重であるが、八重桜は風変わりなものである。とても仰々しく素直でない。植えなくてもいいだろう。遅咲きの桜は、これもまた興醒めだ。毛虫の付いているのも煩わしい。梅は白いの、薄紅梅がいい。一重なのが早く咲いているのも、重なっている紅梅の匂いが素晴らしいのも、皆いい感じだ。遅い梅は、桜と咲く時期が重なって、評価が劣り、圧倒されて、散り際が悪く枝にしぼみついているのが、嫌な感じだ。『梅の一重なのが、まづ咲いて散っているのは、気が利いていて、感じがいい。』と言って、京獄入道中納言は、やはり一重の梅を軒近くにお植えになっていた。京極のお屋敷の南向きに、今も二本あるようです。柳もまたおもしろい。四月の頃の若葉の楓は、あらゆる様々な花や紅葉にも勝って素晴らしいものである。橘や桂は、どちらも木は古木になって大きいのがいい。
草は、山吹、藤、杜若、撫子がいい。池には蓮。秋の草は、荻、薄、桔梗、萩、女郎花、藤袴、紫苑、吾木香、刈萱、竜胆、菊。黄菊もいい。蔦、葛、朝顔は、どれもそれほど高くなく、ささやかな垣に繁くないのがいい。このほかの、世間に珍しいものや中国風の名が耳慣れなくて、花も見慣れないのなどは、あまり親しみが持てない。
だいたい、どんなものでも珍しく滅多に無いものは、身分教養の低い人が面白がるものである。そのようなものは無い方がいい。」
『枕草子』の「物尽くし」に倣い、植物の好み・趣味を論じている。ただし、兼好には珍しく、故事来歴にではなく、自分の感性に従っている。それでも、定家を出すところなどには、権威に頼る兼好らしさが出ている。
総じて、あっさりしたもの、ありきたりでゴテゴテしていないものを好む。至極まっとうで無難な趣味である。そのため、あまり個性が感じられない。ただし、若葉の楓の魅力には、独自の発見がある。楓は紅葉が美しいという常識に挑んでいる。その一方で奇を衒うのは俗物趣味だという批判も忘れない。
コメント
一言で言ってしまえば「好み」ですね。八重桜、かたまり感が夕闇の中だと雪洞に灯を点したみたいで綺麗なものですけれど。兼好は古来からの天然自然なものを好むという事なのでしょう。楓の記述には共感を覚えます。楓の若葉の間をさわさわと風が抜ける様を見ると目で涼感を味わえます。
今「バラの絵を描いてください」と言われたら十中八九、八重咲きのものが描かれると思うのですが、バラも元は一重咲き、今でもありますがあまり印象に無いのでは。先入観でそのものを見ずに否定してしまうのは勿体ないです。ただ、朝顔や万年青など珍種を競ってのブームで高値がついて、などには行き過ぎだとは思います。こうなってしまうと、あぁ綺麗だ、で済まず、花を見ずに所有欲が一義になってしまいますから。
「八重桜、かたまり感が夕闇の中だと雪洞に灯を点したみたい」に共感を覚えます。薔薇もそうですが、八重咲きにや八重咲きのよさがありますね。それを認めないのも、視野を狭めます。
ただ、珍しさを自慢の種にするのは、虚栄心を増大させるだけでなく、自らの好みを見失うことにも繋がります。自分の好みに正直でありたいものです。