《期待されない季節》

題しらす よみ人しらす

いつのまにさつききぬらむあしひきのやまほとときすいまそなくなる (140)

いつのまに五月来ぬらむあしひきの山郭公今ぞ鳴くなる

「いつの間に五月が来てしまっているのだろう。山郭公が今鳴いているのが聞こえることだ。」

「来ぬらむ」の「ぬ」は完了の助動詞の終止形。五月が始まったことを表す。「らむ」は現在推量の助動詞の終止形で、ここで切れている。以下は推量の根拠になっている。「あしひきの」は、「山」の枕詞。「山ぞ」の「ぞ」は係助詞。係り結びで「鳴くなる」に掛かる。「鳴くなる」の「なる」は聴覚推定の助動詞の連体形。音や声からその主体を推定する。「・・・声(音)がする」「・・・が聞こえる」。
作者は五月がそれまで来ていることに気が付かなかった。山郭公の声を聞き初めて、もう五月が来ていたのだと気づき驚いている。五月は夏の始まりである。普通、季節は先取りしたくなるものである。しかし、夏の訪れはそうでもない。いつまでも春のままでいてほしいと願うからだ。それでも、人の思いとはうらはらに季節は進んでいく。山郭公の声によって否応なしに夏の到来を知ることになる。
この歌には五月への関心の薄さが表れている。できれば、来てほしくないからだろう。あの暑い暑い夏が始まるのだから。現代の清々しい五月ではないのである。「あしひきの」と枕詞を使っているのも、「山郭公」への距離感を感じさせる。
これも五月という季節への思いの一つである。

コメント

  1. すいわ より:

    なるほど梅雨前の爽やかな現代の五月とは受け止められ方が違うのですね。新緑の美しさは歌われないのでしょうか。「あしひきの」、春への未練を引きずっている感があります。郭公の声が聞こえてくるけれど、「山」と付けることでまだここまでは来ていない、と出来るのなら夏の訪れを遅らせたいのですね。

    • 山川 信一 より:

      「山郭公」という言葉もそっけないですね。遠くで聞こえるくらいの感じでしょうか。
      歌が思いを伝えるならば、この歌でが伝える思いとは《夏の憂鬱》でしょう。しかし、それを直接述べて言葉はどこにもありません。言っているのは、〈郭公の声が聞こえるから五月が来たようだ〉だけです。それでいて、その思いは伝わってきます。これを転喩あるいは側写と言います。見事な表現です。だから、貫之は選定しました。

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