《春の戸惑い》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた つらゆき

はるののにわかなつまむとこしものをちりかふはなにみちはまとひぬ (116)

春の野に若菜摘まむと来しものを散り交ふ花に道は惑ひぬ

「春の野に若菜を摘もうと来たのに、散り乱れる花の有様に、道は思い悩んでしまう。」

「来しものを」の「し」は、過去の経験を表す助動詞「き」の連体形。「ものを」は逆接の接続助詞で、ここでは「来し」という過去と「散り交ふ花」という現在の情景を対照している。
この歌は春の移ろいの早さについて行けない戸惑いを詠んでいる。春の野に若菜を摘もうと来たのに、今は桜の花びらが散り敷いている。それで、道は思い悩んでしまうと言うのである。
若菜と散る桜の取り合わせに違和感を持たせることで、読み手を立ち止まらせる。その上で、歌の主旨を考えさせる。〈道に惑ひぬ〉ではなく、「道は惑ひぬ」になっていることに注目させる。
「道に」なら、単にその場の状況を表したことになる。しかし、「道は」だと、「道」が主語になる。つまり、〈道が春の移ろいの早さに思い悩んでしまう〉という意になる。もちろん、実際に思い悩んでいるのは作者であって、〈道について言えば、私が思い悩んでしまう〉という風にも取れる。「に」と「は」の使い分けに気づくかどうかが試されている歌である。

コメント

  1. すいわ より:

    地方から戻ってみると華々しい「花たち」、どれも美しく迷ってしまう、、という開けていくイメージ。
    若菜摘む頃というと、年明けの七草の頃を連想します。満開の桜の更に後、桜散る頃と間違えようのない間違い?花吹雪を若菜摘みの時季の雪と見ての事でしょうか。この違和感は何でしょう、、。
    なんとなく「土佐日記」を思い浮かべてしまって、今まで寒かった(鄙)けれど若菜摘みの健康(健全)な生活から、これからは華やか(京)だけれど惑わされる(権力)生活への不安、迷いのようなものを感じてしまって、表向き明るく華やかな歌の底に何か「みちはまとひぬ」、この先どう進むべきかの迷いを感じてしまいます。

    • 山川 信一 より:

      誤読しました。訂正します。貫之の巧みな表現にしてやられました。違和感を解消すること無く、勝手にこじつけてしまいました。訂正した鑑賞を載せます。再度ご検討ください。

      • すいわ より:

        「に」と「は」、そうなのです、そこが引っ掛かりました。前の歌もそうですが、この歌、正にダブルイメージ。華やかさの中に何か心許なさを感じさせます。時差による二つの世界、この足元もおぼつかないような浮遊感が「春愁」の思いへと誘うのでしょうか。

        • 山川 信一 より:

          「春愁」と言うより「惜春」でしょう。道からすれば、若菜摘みの人を通したかと思えば、今は桜の花びらに覆われています。その移ろいの早さに戸惑い、心乱れます。そして、それはそのまま作者の思いでもあるのです。「道」を主題に立てるとは、思いが及びませんでした。貫之の歌は、気が抜けません。すっかりやられました。

  2. すいわ より:

    惜春、なるほど始まったかと思っていた春が今終わろうとしていて進む道は覆い尽くされている。戸惑いますね。貫之、仕掛けてきますね。

  3. らん より:

    たしかに!
    「に」ではなく「は」ですね。

    これがいいてす。
    道は惑ひぬだなんて、かっこいいです!

    つらゆきにしてやられましたね。

    • 山川 信一 より:

      昔の人は今の人より劣っているなんて誰が言ったのでしょう。とんでもありませんね。
      昔は無生物が主語になることはないなんて、誰が言ったのでしょう。貫之の思考にそんな制約はありません。

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