題しらす よみ人しらす
ふくかせにあつらへつくるものならはこのひともとはよきよといはまし (99)
吹く風に誂へつくるものならばこの一本は避きよと言はまし
誂へつく(る):頼んでこちらの思うようにさせる。
「吹く風に頼んでこちらの思うようにさせられるなら、この一本は避けて吹けと言うだろう。」
言葉は思いのすべてを言い尽くせない。一部だけを表現して、後は受け手の想像力に頼るしかない。ならば、優れた表現とは、想像力をより喚起する表現である。
では、この歌が訴えていることは何か。風が吹き、桜の花が散る情景である。そして、それを惜しむ思いである。しかし、この歌には、散る様子や惜しむ思いを直接表す言葉は無い。それに伴う、別の感情が述べられている。それによって、想像力が喚起され、散る様子や惜しむ思いまでも伝わってくる。
物事を直接述べずに、視点を変えて別の面から述べる、この技法を「転喩」あるいは「側写」と言う。それがかえって、想像力を刺激し、多くを伝える。
とは言え、この思いは無理矢理捻り出したものではない。むしろ、散る桜を見て、風に向かって「吹かないで!」と言いたくなるのは、自然な思いである。この思いに沿って、その先を述べたのがこの表現である。『古今和歌集』は、技巧的と言われる。しかし、決して技巧のための技巧ではない。人間の自然な感情に沿った上での技巧である。
コメント
桜の若木が初めて花を付けた。健気に咲いたと言うのに、風はまだ細い枝に容赦なく吹き付ける。あぁ、せめてこの木の周りを避けて通ってくれないものか、、、という映像が頭の中に自動再生されました。歌は最後の二行足らずの事しか言っていなくても、時間を隔てても、形が違っていても、桜への思いは受け取れたと思います。
『古今和歌集』は、現代短歌とは違って、人間にとって普遍的な思いを歌っています。だから、現代人でも共感できます。
ただし、何を言い表すかに特別な工夫があります。この歌は、作者がもっとも強く感じた「この一本は避きよ」を前面に出しました。