《春の愁い》

題しらす  よみ人しらす

はることにはなのさかりはありなめとあひみむことはいのちなりけり (97)

春ごとに花の盛りはありなめど会ひ見む事は命なりけり

なめ:「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「め」は、推量の助動詞の已然形。

「春が来る度に花の盛りはきっとあるだろう。しかし、花の盛りに出会い、それを見ることは命あってのことだなあ。」

今年も春が来て桜が満開である。今を盛りに咲き誇っている。ただ、その美しさに満たされつつも、ある感慨に気づかされた。桜はいずれ散るけれど、春ごとに桜の盛りは巡り来る。しかし、人間は桜のようにはいかない。老いる一方で若返ることはないのだ。春の満開の桜は、無常への愁いを強くする。来年の春に巡り会い、再び桜の花を見ることができるだろうかと悲しくなる。盛りに滅びを思う。これも春愁の一つである。
正岡子規は『古今和歌集』を否定した。しかし、次の歌にはこの歌と共通の思いが感じられる。「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」「我目には」と個人の事情に引き付けているけれど、これは『古今和歌集』の歌と同様の普遍的な思いに繋がっている。

コメント

  1. すいわ より:

    あぁ、今年も変わらず咲き誇っている。変わらぬ春と変わっていく自分。一年毎にその開きは大きくなっていく。生きていればこそ巡ってくる季節。当たり前の春が当たり前に訪れることの特別さ。
    なぜ、子規は「古今和歌集」を否定したのでしょう。既存の形を打ち破る挑戦をしたかったのでしょうけれど、ただ流行に乗って、何故そうするのか考えずに子規が言うのだからと付き従って闇雲に否定される内容の歌集ではない、と今、味わっていて思います。

    • 山川 信一 より:

      現代短歌に於ける子規の影響は計り知れないものがあります。たとえば、理屈を述べることが嫌われます。事実をそのまま写生せよと言われます。ほとんど考えもなく、常識として。しかし、感動をどう表現するかは自由であっていい。制約を加えるのは間違っています。重要なことは、人の心であって、それが仮に理屈であっても、直ちにいけないわけではありません。なぜなら、言葉は事実を表現するものではなくて、事実に対する見方を表現するものだからです。現代短歌は、子規による偏見を無批判に受け入れているところがあります。

  2. らん より:

    うわ、考えてしまいました。
    来年もまた同じ桜が見れるかなあと。
    命あってこそ、見れるのですね。
    桜に会いたい気持ちが強くなりました。

    • 山川 信一 より:

      これはある程度年を重ねた者の思いですね。若い頃にはこうは思えません。我が身を思えば、桜は一層愛おしく感じられますね。

タイトルとURLをコピーしました