人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ、少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
本意なけれ:不本意だ。甲斐が無い。残念だ。
その道知らん人:「ん」は、未確定の助動詞「む」の連体形。ここでは、仮定を表している。
かたはらいたく:その場にいたたまれない気持ち。傍で見ていられないような気持ち。
「人が語り出している和歌に関する話が、肝心のその歌が劣ってことは残念だが、少しその道を知っている人なら、その人は、素晴らしいと思っては語らないだろう。万事、大して知らない道の話をしているのは、その場にいていたたまれなく、聞いちゃいられない。」
よく知らない道について、訳知り顔で語るのはみっともない。その道に精通している者から見ると、聞いちゃいられない。傍で聞いていると、いたたまれなくなる。だから、未熟者は口を慎めと言うのだ。
一応、ごもっともな意見ではある。なるほど、人は学問芸道などを少しでもかじると、生半可な知識であれこれ、語りたくなるものだ。ただし、その多くは見当外れのことだろう。道を心得ている人からこう言われれば、未熟者は、たまったものではない。道について、何も言えなくなる。
さて、兼好は、誰になぜこう言うのか。愚かなことを語る未熟者を戒めるためだろうか。あるいは、ものの道理を心得ている教養人に共感を求めるためだろうか。
いずれにせよ、未熟者を軽蔑している。上から見下し、優越感に浸っている。これではいかにも不親切だ。「かたはらいたく、聞きにくし」などと、すましていないで、その機会を捉えて、その誤りを正してあげればいいではないか。大いに道の手助けが出来る。なぜそうしない。いかにもシニカルな傍観者の態度である。
コメント
兼好さん、そういうところですよ、だから陰口言われちゃう、と言ってやりたいです。聞き齧りの蘊蓄をさも知っているとばかりに言うのもどうかとは思いますが、知る機会を遮断して自分は特別枠から兼好にとって「価値のある人」を選別するのですから。聞くに耐えないものをどうにかしようとする意思がないのなら、その批判にも意味がありませんよね。それこそそれは、批判ではなく悪口でしかないと思うのです。
文章には、誰に何のために書くのかという対象や目的があります。では、兼好は誰に向かって何を目的として『徒然草』を書いているのでしょうか。
そう思うと、教養人に向かって自分の偉さを誇示するためでは無いかとさえ思えてきます。もしその対象が未熟者なら、ここに書かれていることは、「悪口」にすぎませんね。