《山桜を独占できない》

題しらす よみ人しらす

やまさくらわかみにくれははるかすみみねにもをにもたちかくしつつ (51)

山桜我が見に来れば春霞峰にもをにもたち隠しつつ

峰:山の頂上
を:山の稜線。尾根。
つつ:「・・・し続けていることだなあ。」和歌で余情・詠嘆を込めて用いられる。

「山桜を私が見に来たところ、春霞が山の頂上にも稜線にもかかり山桜を隠し続けていることだなあ。」

前の歌と対照的に山桜の姿を見ることができないでいる。敢えて「我」という言葉を出すことで、せっかくこの私がわざわざ見に来たのにも関わらず残念だという思いを表している。山桜は見られることを恥ずかしく思うのか、春霞の衣を纏ってしまった。それとも、美は独占することを許さないということか。
この歌も恋の歌として読むことができる。恋には邪魔が付きもの。なかなか思い通りには進まない。その思いをたとえているようでもある。

コメント

  1. すいわ より:

    私もそう思いました。御簾越しの難攻不落な彼女、見えないからこそ見たい気持ちが募っていく一方ですね。
    前回の山桜は寂しい山の中にぽつりと一人佇む桜。今日の山桜は?
    詠み手は山へ分け入っていなくて山の全体像がつかめる距離のところで「せっかくここまで来たのに、すっかり霞に包まれて花が見えない」と言っているようにも思えます。その春霞は一面の桜だったりして。

    • 山川 信一 より:

      春霞も春を告げる喜ばしいものの一つですが、それが災いになることもあります。
      一面の桜が霞のように見えることもあります。この歌もそう解釈したいのですが、そうすると「我が見に来れば」が引っかかります。

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