水のほとりに梅花さけりけるをよめる 伊勢
はることになかるるかはをはなとみてをられぬみつにそてやぬれなむ (43)
春毎に流るる河を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ
「水の辺に梅の花が咲いているのを詠んだ 伊勢
来る春ごとに、流れる河に映る姿を本物の花と見て、折ろうとして折ることのできない水に袖がぬてしまわないだろうか。」
本物の梅の花も美しいが、水に映る梅の花も本物と見間違うほど美しい。水に映っているとわかっているのに、毎年それを折ろうとして袖を濡らしてしまうほどである。
「なかるる」には、「泣かるる」が掛かっており、袖が濡れる理由は、折ることができないための涙によるかも知れない。毎年折ることができないで泣いてしまうのである。
コメント
春を迎える度に、そうとは分かっていても手に取ることのできない幻の花に手を伸ばし、水面に触れた瞬間に像は崩れ儚いものとなってしまう。繰り返し繰り返し同じ過ちを犯してしまうほど、それで涙を流す事になっても、梅の魅力に抗うことが出来ない。
「はることに」がまず引っかかりました。大袈裟な感じに感じられたのですが、理屈抜きの魅力、という事なのでしょう。頭で分かっていても止めることの出来ない恋のように。「恋する度に」と置き換えると何だかすんなりと納得できました。
春の歌は、恋の歌としても読めますね。恋する度にそれが涙を流すことに繋がるとわかっていても、儚い幻に手を差し伸べてしまう。
この歌は、そんな自分の姿を暗示しながら梅の花の美しさを詠んだのでしょう。もっと正確に言うならば、梅の花の美しさを言うために恋のイメージを利用したのでしょう。
まさに世界を反転して見せたのです。