第六段 その一 ~深窓の令嬢~

 昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗みいでて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。ゆく先おほく、夜もふけにければ、鬼ある所ともしらで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥におし入れて、男、弓、胡簗を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひければ、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
 白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
 これは二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄、堀川の大臣、太郎国経の大納言、まだ下﨟にて、内裏へ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへしたまうてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とかや。

 教科書にもよく載っている有名な段。前段の続きとして読む。「女のえ得(う)まじかりけるを」の「」はいわゆる同格の〈の〉で、〈女であって、手に入れることができそうもない女〉の意を表す。「まじかり」は打消推量〈ないだろう〉の意。「年を経てよばひわたりけるを」は、五段に述べられた、逢うのが困難な状態が長く続いたことを言う。〈よばふ〉は、〈呼ぶ〉+〈ふ〉で、呼び続ける、つまり、言い寄るの意。しかし、男はそんな中途半端な関係に堪えられなくなり、とうとう女を盗み出してしまう。男は女をかろうじて盗み出した。「いと暗きに来けり」で「来けり」とあるのは、ある場所まで来たことを言う。読者に事件が起こる場所を予想させている。「芥川といふ河を率ていきければ」で固有名詞「芥川」が出てくる。ここで重要なのは、その川が実在するかどうかではない。なぜ「芥川」という固有名詞を使ったかである。〈芥〉はちりやごみの意である。たとえば、〈清川〉と比較してみるといい。〈清川〉とはせず、「芥川」としたのは、汚いイメージを持たせるためである。なぜかと言えば、女との落差を感じさせるためである。男は、高貴な女を似つかわしくないところまで連れてきたのである。女は草の露を見て、〈あれはなあに?とってもきれい!〉と聞く。(「草の上に置きたりける露を、『かれは何ぞ』となむ男に問ひける」)女はそれまで草の上に置いた露を見たことがなかった。だから、〈あれは白玉(=真珠)〉なのと聞いている。女は箱入り娘、深窓の令嬢なのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました