『古今和歌集・仮名序』を読む

これまで『伊勢物語』『土佐日記』と貫之が著した書を読んできた。(私は『伊勢物語』も貫之によるものと考えている。)ならば、やはり、『古今和歌集』を読まずにはいられない。しかし、『古今和歌集』は難物である。私の力で読み通せるか、自信が持てない。だからと言って、逃げるわけにも行かない。何とか、皆様の力をお借りしながら読んでみたい。長い旅になるが、よろしければお付き合い願いたい。
そこでまず、『古今和歌集・仮名序』から始める。

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。

『古今和歌集』は、初めての勅撰和歌集である。その筆頭選者であり、序文を任された紀貫之の思いはいかばかりだったろう。この上ない名誉と責任を感じたに違いない。
もちろん、この歌集は勅撰であり、序文は公の立場から書かれた文章ではある。しかし、それでも、その立場を越えて、貫之の和歌への思いが表れているに違いない。
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。」は、その第一文である。この当代きっての、いや日本文学史上最大の表現者がと言ってもいいかもしれない人物が細部に渡るまで気配りをして書いた文である。読む側は、慎重に慎重にその表現意図を読み取っていかねばならない。安易な決めつけなどもっての外である。この言葉の達人が技巧を凝らさないわけがない。
「やまとうた」という表現には、漢詩への対抗心が表れている。つまり、敢えて「やまと」と言うことで、和歌が漢詩に匹敵するのだという誇り、あるいは、匹敵させたいという願いや気負いが表れている。
「ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」は、「ひとのこころをたねとして」と「よろづのことのはとぞなれりける」が対になっている。
「ひとのこころ」は「ひと」には、「人」と「一つ」が掛かっている。それは、「よろづ」との関連でわかる。つまり、「人の一つの心が種」となり、「万の言の葉」になる、それが歌だと言っているのだ。
人の心を種に様々な歌が生まれるのはわかる。極めて常識的なこと言っているように思える。しかし、の意味が気になる。単なる「人の心」ではないことだ。
「人の一つの心」とは、人であれば、日本人であろうと中国人であろうと、誰しもが持っている〈共通の心〉を言う。貫之は、人間ならば、「一つの心」を持っているはずだ、人には〈普遍的な心〉があると考えている。歌は、その心を「種」として、様々な表現をもって表した「葉」だと言うのである。
ここには、人間がわかり合えるという信頼感が伺える。

コメント

  1. すいわ より:

    胸の熱くなる序文ですね。「人の一つの心」を種として言の葉を紡いで繋いで水平方向にだけでなく、垂直方向にも種は届けられました。貫之は「本来持っている種」の事を知らしめる「種まき」をしてくれたのですね。貫之の切なる思いは時間をも超えて揺るぎない。でも、現代、胸を張って種は森に育ちました!と言えるか、、私の「種」を育てるべく、また国語教室で学ばせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』と貫之は、正岡子規によって否定されました。それは、『古今和歌集』の影響があまりにも強く、一千年経っても、そこから抜け出せないでいたからでした。
      だから、子規は徹底的に『古今和歌集』と貫之を扱き下ろしました。〈古いものはよい〉というトポスを破壊したのです。それはそれで必要なことでした。
      しかし、今度は逆に『古今和歌集』も貫之も正当に評価されなくなってしまいました。誰も彼も分かりもしないくせに、『古今和歌集』と貫之を侮るようになりました。それは、ただ単に権威を子規に乗り換えただけのことでした。
      しかし、『古今和歌集』も貫之も侮れるほど程度の低いものではありません。それどころか、非常に難解です。まともに読める人は限られています。
      参考になる解釈は極めて少ないのです。それなのに、無謀にもこれに挑戦しようとしています。貫之から多くを学びたいからです。お付き合いよろしくお願いします。

  2. すいわ より:

    『古今和歌集』も貫之も、そんな風に扱われていたのですね。全く知識の無い状態で貫之の作品に触れられた事は私にとって幸いな事でした。先入観なく彼の哲学に触れられ、その発想の古びなさに感動しました。
    子規のやりたかった事も理解できます。出来上がった形式を打破する試みは時として必要な事だけれど、子規がそこまでの強い否定をしなければならなかったのは、『古今和歌集』に価値があったからこそ、ですよね。彼自身は己の信じるところに勇んで踏み出し、それが蟻の一穴、総雪崩を起こすと思っていたでしょうか。振り返るだけの時間が彼には残されていなかったようにも思います。子規の看板に乗っかり、貫之を知ることもせず、ただなし崩しに流されて大切なものを失ってはなりませんね。また貫之の作品に触れられて幸せです。国語教室で取り上げて頂かなかったら、一生手に取らずに終わってしまったと思います。

    • 山川 信一 より:

      思考は、暗黙の前提に左右されることがあります。その前提に左右されず、まっさらな気持ちで作品に向かうことが大事ですね。
      いつぞや、太宰治の『走れメロス』を扱き下ろす論を読んだことがありました。それは、寺山修司の否定論に乗っかったものでした。権威に追従しないで、自分で考えなければなりません。

タイトルとURLをコピーしました