和歌のあるべき姿

廿六日、まことにやあらむ、かいぞくおふといへばよなかばかりよりふねをいだしてこぎくる。みちにたむけするところあり、かぢとりしてぬさたいまつらするに、ぬさのひんがしへちればかぢとりのまうしたてまることは、「このぬさのちるかたにみふねすみやかにこがしめたまへ」とまうしてたてまつる。これをききてあるめのわらはのよめる、
「わたつみのちぶりのかみにたむけするぬさのおひかぜやまずふかなむ」
とぞよめる。このあひだにかぜのよければかぢとりいたくほこりて、ふねにほあげなどよろこぶ。そのおとをききてわらはもおきなもいつしかとしおもへばにやあらむ、いたくよろこぶ。このなかにあはぢのたうめといふひとのよめるうた、
「おひかぜのふきぬるときはゆくふねのほてうちてこそうれしかりけれ」
とぞ。ていけのことにつけていのる。

問1「かぢとりいたくほこりて」あるが、舵取りが「誇る」理由を説明しなさい。
問2「おひかぜの」の歌を、「ほてうちてこそ」の意味に注意して鑑賞しなさい。
問3 作者(=貫之)は、二つの歌を通してどんなことを伝えようとしているのか、説明しなさい。

書き手は、夜中からの出航という異常事態に不安を募らせている。本当に海賊が追いかけてくるのか。海賊は夜中には行動しないと言われている。そのための出航だと言えば、従うしかない。
道すがら海の神に手向けをするところがあり、船君は舵取りに幣をさし上げさせた。すると、幣が東に散ったので、舵取りが神に申し上げたことは「この幣の散る方向にお船をすみやかに漕がせてくださいませ。」と申し上げた。これを聞いてある女の子が詠んだ「海の旅の安全を守る神様に手向けする幣を東に散らす追い風が止まずに吹いて欲しい。」と詠んだ。この歌に句切れが無いのは、風が止まないでほしい思いからだろうか。
こうしている内に、風が好都合に吹いたので、舵取りはそれが自分の手柄だとでも言うようにひどく得意満面で、船の帆を上げなどして喜ぶ。「私の言うとおりだろう。私に従っていれば、問題ないのだ。」とでも言わんばかりである。(問1)
帆を上げる音を聞いて、子どもも爺さんも少しでも早く早くと思うからであろうか、無邪気にたいそう喜ぶ。この中にいた「淡路の婆さん」という人が詠んだ歌は、「追い風が吹き始めた時は帆手(=帆の左右につけた張り綱)が帆をバタバタさせている。それは何とも嬉しいことだが、私たちもそれに合わせるかのように、手をパチパチと打って喜びを表している。」という歌だ。情景が目に浮かんでくる上手な歌である。(問2)
誰しもが天気にこと寄せて旅の安全を祈る。
どちらの歌もその時の一行の思いをよく表している。歌は、このように喜びや悲しみに伴い、漠然とした思いを歌の形にすることで、それを一層味わい深くしてくれるものである。また、歌は日常生活と共にあり、子どもでも使用人でも、誰でもが詠めるものである。これが和歌というものの真の有りようである。(問3)

コメント

  1. すいわ より:

    「女の童の歌に句切れがない、風が止まないで欲しい」、気付きませんでした!そこここに工夫が散りばめられていますね。
    技巧を凝らした歌にも勿論、感動しますが、子供から老人まで、日常の中で心が動いた瞬間を率直に歌に詠み、気持ちを伝えようとする、その行為が現代の私たちでも共感出来ることに驚きと感動を覚えます。

    • 山川 信一 より:

      歌は、詩心を求めるあまり、展覧会の絵のように奇抜で激しい言葉を使うものとの誤解があるようです。
      その誤解を生み出したのが『古今和歌集』の技巧的な歌です。そこで、貫之はその誤解を解きたかったのではないでしょうか?
      歌本来のあり方を示そうとしてこの『土佐日記』を書いたような気がします。

  2. らん より:

    どちらも早く帰りたいという祈りの歌ですね。
    童の歌は、「追い風さん、止まないでー」という切なる願いが、
    また、老婆の歌は、追い風で帆がパタパタしてる様子を見て、「やったー、嬉しい」とみんながパチパチ手をたたいて喜んでいる情景が浮かびました。

    • 山川 信一 より:

      歌は、折に触れて思いをこんな風に詠みたいものですね。背伸びした高級な言葉で作るものと思うべきではありません。
      貫之はそのお手本を示したのでしょう。日常のささやかな感動に形を与えるのが歌です。
      この二つの歌で、その時の思いと情景が永遠のものになりました。

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