魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人《ぜつじん》たる任務《つとめ》は忽地《たちまち》に余を拉《らつ》し去りて、青雲の上に堕《おと》したり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢《けうしや》を、氷雪の裡《うち》に移したる王城の粧飾《さうしよく》、故《ことさ》らに黄蝋《わうらふ》の燭《しよく》を幾つ共なく点《とも》したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤《てうる》の工《たくみ》を尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
「ここは、ロシアでの活動が書かれている。「何事をか叙すべき。」とは、〈何を書いたらいいのだろうか〉という意味だけど、どんな気持ちがわかるかな?」
「これは疑問文だね。反語だと、〈書くことがない〉になるけど、これじゃおかしい。〈いっぱい在って書き切れない。何を書いていいのかわからない。〉っていう、ちょっとしたためらいの気持ちだね。と言うのは、外交の派手な舞台に圧倒されてしまったからだ。」
「ただ、後を読むと、豊太郎は大活躍してるよね。すると、どう書いても自慢めいてしまうから、気が引けたんじゃないの。」
「「わが舌人たる任務は忽地に余を拉し去りて、青雲の上に堕したり。」というのは、擬人法と隠喩で、外交の場という高みでの通訳の仕事を忙しく行ったということ。ロシアの首都ペテルブルグでは、次のような華やかさに取り囲まれた。パリの絶頂の奢りと高ぶりを氷と雪の中に移したと思われる王城の装飾、殊更黄蝋のロウソクを数多く灯している上に、沢山の人々の勲章や肩章が反射する光、彫刻の技工を尽くした壁式暖炉の火に寒さを忘れて使う宮女の扇の閃きなどである。その中でフランス語を最も円滑に遣うのは豊太郎だったので、賓客と主人の間に動き回って話をするのも多くは豊太郎だった。大活躍だね。どんな気分だったんだろう。」
「自分の存在価値を認識して、大満足だったんじゃない?」
日本とロシアとの外交の場で、みなに頼りにされ、思う存分能力を発揮した。そこは、あの寒い屋根裏部屋や下町の休息所とは、まるで別世界だった。豊太郎は、こここそが自分が本来いるべき舞台であり、仕事なんだと思ったに違いない。これでは、エリスの存在価値は小さくなるばかりだ。
コメント
青雲の志、まさに亡き母の遺言に近づいた。それは同時に自らの願いでもあった事。豊太郎の心の高揚がひしひしと伝わってきます。ロシアにおいてフランス語を話すのは上流階級のステータス、そうした人々にもてはやされたとなれば有頂天になってもおかしくない。あの日、薄い外套で寒さに震えながらホテルを後にした時と比べたら、なんと煌びやかで華やかな場に自分は立っていることか。それもこれも自分、どちらの自分が本当の自分?どちらに自分は身を置きたい?人に問われるまでもない事ですね。エリスのエの字も出てこない。エリスに気持ちがあるならば、こんな晴れやかな様子を見せてやりたい、と思ったりするものでしょうけれど。気鬱の元はなるべく気持ちの片隅に押しやって見ないようにしたいのか、、。
「青雲の上に堕《おと》したり。」を「青雲の志、まさに亡き母の遺言に近づいた。」と読みましたか。なるほど、そうも読めますね。私は、「星雲」を華やかな外交の舞台と読みました。
豊太郎の行動の規範や価値基準には、いつも母が存在していますね。今の自分の姿こそ、母を喜ばせるものだと思っているのでしょう。
この場、この仕事こそ自分がするべきものだと感じているに違いありません。やはり自分はここに居るべきなのだと。
もはや、エリスとの暮らしは比較の対象ですらなくなりました。