公使に約せし日も近づき、我命《めい》はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長《へんしふちやう》に説きて、余を社の通信員となし、伯林《ベルリン》に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
「豊太郎は、日本に帰るかどうかを迫られる。だけど、このまま日本に帰れば、汚名を負ったままで二度と出世することはできない。ところが、この地の留まるには、お金が無い。だからすごく困っている。この時豊太郎を助けてくれたのがこの船で一緒に日本に帰って来た相沢謙吉だった。相澤は、当時東京にいて、既に天方大臣の秘書だった。それが官報に載った豊太郎が免官のことを知って、新聞社の通信員の仕事を見つけてくれた。豊太郎がベルリンに留まって、政治学芸などを報道するようにしてくれたんだ。」
「相澤沢吉っていい人だね。でも、なんでこんなに親切なんだろう。」
「友達だからなんじゃない?きっとよほど親しい仲なんだよ。」
「「情けは人のためならず。」と言うからね。困っている時に助けてあげれば、いつか自分に返ってくると思っているのかも?」
「相沢謙吉って名前は、福沢諭吉に似ているよね。それを踏まえているのかな?」
「多分そうだと思う。そのキャラを利用しているんだ。」
「そのキャラって何?」
「功利主義とか?ならば、豊太郎を助けたのは、自分にも利があるからだよ。そう考えるのが功利主義。」
ともかくも、これで直ぐに日本に帰らずに済んだ。相沢謙吉は一体何を考えているのか。彼もこれからドイツに行くことになっていたのだろうか。この男は油断がならない気がする。
官吏は失敗を許されない。豊太郎はこの先名誉を挽回できるのだろうか。
コメント
今、ドイツから帰国の途にある豊太郎と相澤。当時、相澤は東京にいてドイツにいる豊太郎と連絡を取り、豊太郎のドイツでの生活が立ち行くように職を斡旋したのですね。相澤は後からドイツに来て豊太郎と共に帰国。特別に友人だったとも記されていないし、関係性がわかりませんね。免職を言い渡された豊太郎、自分で何某かの職を探そうとは思わなかったのでしょうか。今まで差し伸べられる手に従って来た彼には自らの手で未知のものを探し出す知恵は無かった、という事なのでしょうか。助けてもらえるのなら、と藁にもすがる気持ちだったのでしょうけれど、何とも心許ないです。
ここは、世事に長けた相澤に対して、現実的なことには疎い豊太郎とが対照的に描かれています。
豊太郎は世間知らずの頭でっかちだったのです。綺麗事だけで生きてきました。
相澤謙吉、親切でいい人ですね。
福沢諭吉のもじりだ、きっと。
私も油断ならない人物のような気がします。
しかし、豊太郎は世間知らずですね。
こうなると、勉強ができなくても、いろいろな経験をしていて、生きていく力のある人の方がいいなあと思います。
鷗外は、豊太郎の姿を通して、いわゆるエリートを批判しているのでしょう。
エリートには、ひたすら名誉を求めて勉強だけしているようなタイプが多いのは、昔も今も変わりません。
収入やステイタスの高さで職を選ぶ人もいます。
それは、コロナ禍で少しは変わるでしょうか?