そが傍に少女は羞を帯びて立てり

 余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈《ラムプ》の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆《うるし》もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃《いんぎん》におのが無礼の振舞せしを詫《わ》びて、余を迎へ入れつ。戸の内は厨《くりや》にて、右手《めて》の低き窻に、真白《ましろ》に洗ひたる麻布を懸けたり。左手《ゆんで》には粗末に積上げたる煉瓦の竈《かまど》あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布《しらぬの》を掩へる臥床《ふしど》あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この処は所謂《いはゆる》「マンサルド」の街に面したる一間《ひとま》なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窻に向ひて斜に下れる梁《はり》を、紙にて張りたる下の、立たば頭《かしら》の支《つか》ふべき処に臥床あり。中央なる机には美しき氈《かも》を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列《なら》べ、陶瓶《たうへい》にはこゝに似合はしからぬ価《あたひ》高き花束を生けたり。そが傍《かたはら》に少女は羞《はぢ》を帯びて立てり。

「豊太郎は、閉め出されて茫然として立っていた。そのとき、表札に気付く。エルンスト・ワイゲルトとあり、仕立物師という注があることに気付き、これが亡くなった父親のであるとわかる。家の中では言い争う声が聞こえる。その後静かになり、ドアは再び開かれる。すると、さっきの老婆が丁寧に先ほどの自分の無礼な行為を詫びて、家の中に入れてくれる。なぜ、急に態度が変わったのかな?」
「たぶん、中でこんなやり取りがあったんだよ。「あんた、あたしの言うことを聞かないで飛び出したあげく、よりによって何だってあんな東洋人を連れてくるんだ。」「お母さん、あの人はいい人よ。あたしたちを助けてくれると言っているわ。」「ほう、そうかい。確かに身なりはよかったね。それなら、話を聞いてみるか。」」
「多分そんなところだね。エリスの母親は、現金な人なんだ。金を持っているなら、東洋人だってかまわないって思っている。お金ってすごいよね。人種差別を超えてしまう。」
「でも、人種差別の根本にはお金の問題がある。人種差別は、経済的な既得権を手放さないための戦略なんだ。普通は逆だよ。でも、取り敢えずここではお金がものを言っている。豊太郎は、身なりからいかにもお金持ちに見えたんだ。」
「じゃあ、もう少し意味を追っていくね。ドアを入ると台所で右手の低い窓に真っ白い麻布が懸かっている。ちなみに、右手は馬手、左手は弓手のこと。その布はカーテンの代わりかな?左手にはレンガを積み上げた粗末なかまどがある。正面の一室のドアは半分開いていたが、中にはシーツを被せたベッドがある。臥しているのは、亡くなった父親だろう。エリスは、かまどの側のドアを開けて私を導いた。この部屋は、いわゆるマンサルドであって、街に面した部屋なので、天井もない。梁に紙を貼ってあるというのも貧しさの表れね。斜めの壁に沿ってベッドが置いてある。机には美しい敷物が掛けてあって、上には書物が一二冊と写真帳が並んでいる。花瓶にはこの部屋にはふさわしくない高い花が生けてあった。その傍に少女は恥ずかしそうに立っていた。
 以上、部屋の様子ね。エリスの部屋は、屋根裏部屋だね。壁が斜めになっているんだ。ただ、それなりに小綺麗に整っている感じがする。そこからエリスの性格がわかる。部屋は内面の表れだからね。エリスは自分の部屋にまで豊太郎を招き入れた。ここからどんなことがわかる?」
「外国人であろうと何だろうと、エリスは自分のことをどうしても救ってほしかったんじゃない?恥無き人になりたくなくて必死だったんだよ。」
「それもあるけど、豊太郎に何か特別な親しみを感じたんじゃない?女の子にはそういう予感のようなものがあるから。「あたしはこの人を好きになるわ。」っていう予感。」
「だよね。助けてくれるなら、誰でもいいって訳じゃないからね。部屋までは入れないよ。」
「恥ずかしそうにしていたのはなぜ?」
「自分の大胆な行動に少し気後れしているからだよ。」
「ところで、この高価な花は何?」
「エリスを我がものにしようとしている男からの贈り物だね。」
「なら、自分の境遇を思い起こして恥じているんじゃないの。」
 女の子は時に自分でも信じられないような大胆な行動をすることがある。ほとんど自分の本能に従って。ただし、それが幸福をもたらすという保証はないのだけれど。

コメント

  1. すいわ より:

    前回、らんさんも仰っていらしたのですが、私も豊太郎、どう転んでも面倒事に巻き込まれるのは目に見えているのに、家まで行ってしまうのだなぁと思いました。家まで付き添って結果的に少女の話したことに嘘偽りのない事が見て取れたわけですが、同僚とですら人間関係を回すのに苦労している豊太郎が、赤の他人の差し迫った家庭問題に足を突っ込んでしまって、さて、どう収拾を付けるやら。
    エリスはエリスで家に戻って少し冷静になって考えたら、初対面の豊太郎に家の恥をすっかり話してしまった上、相手の提案とはいえ、家にまで連れ帰るという普通の時なら絶対にしないであろう行動をとってしまった事を恥じているのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、ドイツの大学の自由な風に触発されて自我に目覚めました。その結果、これまでの自分に嫌悪感を抱き、そこから抜け出そうとしています。エリスとの出会いはそんな折でした。そのことも関係しているのでしょう。
      今の自分なら何とかできるのではないかという漠然とした自信が有ったのかもしれません。気が大きくなっていたのです。
      エリスは、自分が恥無き人になることにとても苦しんでいました。そうならないで済むならどんなことでもしようと思っていました。それをこの偶然の出会いに掛けたのです。この時冷静な判断など有ろうはずもありません。
      常識的な見方からすればあり得ないことであっても。

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