石炭をば早や積み果てつ

 石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒《いたづら》なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌《カルタ》仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。

「まず題名の「舞姫」から考えてみようね。この語は、踊り子・ダンサーを意味している。ただ、それらよりもずっと優雅な響きがあるよね。なぜこんな題名にしたんだろう?」
「「舞姫」と呼ばれる人に対するリスペクトが感じられる。その人は、軽い存在じゃないんだ。すごく大事にしている気がする。」
「そうだね。それはこの作品全体に関わる問題だね。もしかすると、この作品が文語体で書かれていることも同じ理由かもしれない。当時は既に、言文一致体の文章が書かれていた。鷗外も翻訳などでは口語体を使っていた。なのに、『舞姫』は文語体で書いている。これは、内容への思い入れがあったからじゃないかな?安っぽい印象を与えたくなかったとかの。文語だと重々しい感じなるからね。それはこれから確かめて見よう。
 次に書き出しだけど、不思議な書き出しだよね。「石炭」は題名の優雅さとは対照的で、意外性や違和感がある。「えっ何?」と思わせているのだろうね。この小説は、明治二十三年に出版されている。当時、石炭は時代の最先端を行くエネルギー源だったんだろうね。つまり、この言葉は新しさを感じさせるものとして使われているんだ。それを積み果てた。それが意外で先が読みたくなる。しかも、どこに「積み果てつ」とは書いていない。読者はそれを知りたくなる。いずれも、読者を物語に引き込む工夫だね。中等室とあるからきっと上等室も下等室もあるのだろう。主人公は、ほどほどの身分の人だね。「熾熱燈」は、白熱電灯のことで、これも新しい時代を感じさせる言葉として、使われている。「光の晴れがましき」とあるから、当時の人にとっては眩しいくらいに明るかったんだろう。その明るさが無意味(「いたづら」)だと言う。これも、「なぜ?」と思わせる工夫だよね。理由は、夜ごとに集まって来るトランプ仲間も(と言うことは他の人も)ホテルに宿を取って、「舟」に残るのは私だけだからと言っている。「余」は私という意味。「骨牌」はトランプのことで、これも新しさを感じさせる言葉。「舟」と言うのは、客船のことで、どこかの港に停泊してるのだろう。何と言う港なのか、まだわからないことばかりだ。主人公が誰なのかさえわからない。文語体なのに、内容が新しい。その意外性も作者の狙いなのだろうね。」

コメント

  1. すいわ より:

    「石炭をば早や積み果てつ」、の書き出し、懐かしいです。石炭、蒸気機関車?中等室の卓?あ、違う、蒸気船だわ、と思った事を思い出しました。闇のように黒い石炭の熱と、白日のように明るい室内にもかかわらず静けさの中に置かれた主人公の冷たい孤独感の陰、なんだろう、この明暗、温度差、と思ったものです。
    なるほど、当時の最新鋭が詰まっていたのですね。目新しい文明、文化、主人公がどんな人なのか、なんの目的で船旅をしているのか、なぜ一人、船に残ったのか、、そして舞台装置と語り口のギャップ。物語に引き込まれる要素満載な事に当時の私は気付いていませんでした。

    • 山川 信一 より:

      『舞姫』は極めて技巧的に書かれています。鷗外の知性が隅々の表現にまで行き渡っているような気がします。
      そこで、まずは表現の指し示すところを丁寧に辿っていきます。

  2. らん より:

    石炭の時代の話なんですね。
    昔は炭鉱、たくさんあったなあ、今はないけどと思いながら読んでました。
    カルタはトランプかあ。
    文語体で比較的新しい時代のことなんだなあと新鮮でした。

    • 山川 信一 より:

      作者は、文語体で新しい時代を書くという面白さを狙っています。
      口語体で書こうと思えば書けたのに敢えて文語体にしました。

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