袁もまた涙を泛《うか》べ、欣《よろこ》んで李徴の意に副《そ》いたい旨《むね》を答えた。李徴の声はしかし忽《たちま》ち又先刻の自嘲的な調子に戻《もど》って、言った。
本当は、先《ま》ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己《おのれ》の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕《おと》すのだ。
春菜先輩に戻った。前回の疑問が気になる。どういうことなのだろう。
「袁傪はすぐに李徴の頼みを聞いてくれたね。やっぱりいい人だよね。まあ、出世しているから経済的な余裕があるんだろうね。でも、問題は次だよ。「李徴の声はしかし忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。」なぜ李徴は自嘲したのかな?純子、答えて。」
「それは、袁傪から「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。」と思われたくなかったからじゃありませんか?」
「そうだね。自嘲ならそうだね。この問題は、引っかけなんだ。ここは「先刻の自嘲的な調子」と言っている。その時もそうだったけど、自嘲そのものではないんだ。自嘲はポーズに過ぎない。」
「じゃあ、なぜ自嘲のふりをするんですか?」
「ホントは袁傪に自分が〈詩の鬼〉だと思ってほしいからだよ。だってそう思ってもらっても、李徴のプライドは少しも傷つかないもの。むしろ、妻子を思って泣くような甘っちょろいやつだって思ってもらいたくなかったんだ。」
「芥川龍之介の『地獄変』の絵師良秀は「芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない」人物だけど、芸術家にはそういう非情なところがあるよね。良秀は、娘が焼け死ぬところを見て地獄の絵が描けると微笑んだのだからね。ところが、今見せてしまった姿はこれに反する。だから、まずいと思ったんじゃない?」
「だから、李徴はわざと妻子のことを最後に頼んだんだ。自分が非情な詩人であることを印象づけるためにね。ところが、思わず慟哭の声を上げてしまった。これでは、イメージが台無しになる。それで、さらに自嘲のふりをしてカバーしようと思ったんだ。」
「確かに、芸術家ならそういう非情な面もあるかもしれないけど、妻子を思う気持ちがあるかどうかは決定的なことじゃないんじゃない?それなのになぜ、李徴はそのことを気にするの?」
「だって、李徴には自分が〈詩の鬼〉じゃない、真の芸術家じゃないってわかっていたからだよ。だから、必要以上に余計なことを気にしてしまったんだ。」
「なるほど、だからこの小説の最初の段落に「妻子の衣食のために遂に節を屈して」と書いてあった。李徴は、妻子のこともちゃんと考えていた。妻子に対する愛情がないわけではないんだ。」
「そうしてみると、李徴の正体は、何事にも徹しきれない中途半端な人間だということになる。だから、それをこそ、最も見破られたくなかったんだ。」
「なるほど、詩人としても中途半端、エリートとしても中途半端、家庭人としても中途半端、何一つ徹しきれなかった、それが李徴なんだ。だけど、そう思われるのが一番嫌だよね。」
「だから、悲劇の詩人を演じたのか!」
「それともう一つ、李徴は、自分が最も軽蔑していた俗物そのものだったことに気が付いたんじゃないかな?前に出て来た「憤悶と慙恚」ってあったよね。あの「慙恚」の中味がこれだったんじゃない?自分があれほど軽蔑していた俗物そのものだったことを恥ずかしく思うんだ。」
「でも、それを知られることをなぜ恐れるの?」
「「李徴にとって、実体が何であるにせよ、他者の評価が極めて重要なんだ。自分で自分を評価できないからね。」
「李徴には何もかもがわかっていたんだ。でもどうすることも出来ない。自分を曝け出す勇気が出ないんだ。」
「とことん哀れなヤツだね。」
何事にも徹し切れていないのは、あたしも一緒だよ。あたしも何もかも中途半端。小説が好きで、自分でも書きたいって思ってるけど、才能が無いって言われるのが怖くて、趣味に留めている。その一方で、いい大学にも入りたいと思っている。しかも、自分を曝け出すことを恐れている。すごく怖い。あたしは、やっぱり李徴だ。
コメント
芸術家を気取れば面目が立つ。でも、うっかり泣きべそかいてしまう。何時いかなる時も「ヒーロー」でいたいのですね、格好付けたい。まったく。普通に優秀な人じゃ嫌なのですね。普通に生きるのが案外大変なことなのだけれど。帰るに帰れない中、名誉欲を満たすことを生きる糧にするしかないのは、やはり哀れですね。
これがエリートと呼ばれる人の典型的な心情なのです。こうしたことは主に男性の心情なのですが、女性にもいます。
この点では、近年男女の差がなくなってきています。社会的地位が高いと思われている職業に就いている人ほどこういう傾向が強い。
職業など、人間的価値のほんの一部でしかないのに、それがわかっていません。
先生、謎がとけました。
自分が軽蔑していた俗物と思われたくなかったんですね。
妻子が一番心配なこと、それでいいのに。
自分を曝け出すことができなかったんですね。どうしてもプライドが許さなかったんだなあ。
李徴は李徴でいいのにな。
李徴には、妻子を思う人並みの優しさがありました。ただし、どこまでもそれに愛するかと言えばそうでもないのです。
役人で出世することに徹するかと言えば、それはプライドが邪魔して出来ませんでした。詩人には、詩への愛が足りなくてなれませんでした。
ただただ、名声だけを望んでいました。それこそ、俗物の願いそのものでした。
李徴には、自分の至らなさがよくわかっていました。それを知られることを何より恐れました。
だから、詩の鬼という虚像を作り上げたのです。