今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼《め》を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻《しき》りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時《いつ》しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫《つか》んで走っていた。何か身体《からだ》中に力が充《み》ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱《ひじ》のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。
美鈴の番だ。いよいよ李徴の告白が始まる。
「始めます。まず前回の質問からね。純子、何か気が付いたことはある?」
「「草中の声」という表現がありました。前に「見えざる声」と言ったのを言い換えています。いずれにしても「声」なんです。袁傪と読者の関心を声に集めています。そのことで、余計なこと、たとえば虎の外形などを考えさせないようにしています。」
「そうだね。ここは、話の中味が肝心だからね。しかも、今日のところに関わるんだけど、ここでも「声」が出てくるんだ。読者に「声」に関心を持ってもらおうとしているんだ。
李徴は闇の中から誰かに呼ばれる。李徴はそれに応じて外に出る。そして、走り出す。その姿が傍からは発狂したように見えたんだ。李徴は駆け出していく。あたし、この変身の場面が結構好き。躍動感に満ちててさ。李徴がしがらみから解放されて本来の姿になっていく感じがする。狂ったんじゃなくて、ホントの自分になれたような。「何か身体中に力が充ち満ちたような感じ」ってところなんか、特にそんな気がする。ねっ、そう思わない?」
「ホント、神秘的且つ自然でリアルな感じ。虎に変身するなら、こんな感じだろうね。中島敦って上手いなあ!」
「でも、李徴を呼んだのは誰なんだろう?神様かな?夜中に自分を呼ぶ声が聞こえるって何だか怖い。呼ばれたらどうしよう!」
「夢についてのコメントは、読者の共感を誘うね。あたしにも経験がある。みんなにもあるよね。」
ここは袁傪(と読者)にいかに共感してもらうかに気を配っている。読んでいると、そんなこともあるかなって気がしてくる。夢についての読者の経験に訴えているのも、そのためだね。
コメント
「気が付くと手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。」確かに四足歩行で走っていて見えるのはせいぜい肘から先くらい。読者が思い描くのに難くないリアルな描写が、現実にはあり得ない事なのに李徴の身に起こったことをすんなりと受容させてしまう。誰もが経験したことのあるであろう夢の話を持ってくることで現実と非現実の垣根を軽々と取り払って疑いの気持ちを挟まずに李徴の話を聞いてしまう。見事ですね。
「何か、身体中に力が充ち満ちたような感じで」、子供の頃ってこんな感じですよね。疲れ知らず、毎日が理由なく何か楽しい。ままならない現実から逃れたい李徴、周りの柵に縛られることなく、屈託なく過ごせていたであろう幼少期の自分が呼んだのでしょうか。それとも呼ばれたかったのか。
「疲れを知らない子どものように」という歌があります。なるほど、子どもの頃は「何か、身体中に力が充ち満ちたような感じ」でしたね。
「屈託なく過ごせていたであろう幼少期の自分が呼んだ」という鑑賞は面白いです。李徴は子ども時代に呼び戻されたのかもしれませんね。
ほんとに、変身していく様子は躍動感がありますね。神秘的であり、なんかかっこいい。映画の変身シーンみたいです。
でも、本人は、ぎゃーって感じでしょうね。
李徴はだれに呼ばれたのでしょうか。気になります。
神秘体験は人に語るのが難しいものです。なぜなら、自分だけの経験であって、相手の共感を得にくいからです。
しかし、李徴(作者)はそれを易々と乗り越えて見事ですね。