昔、男、ふして思ひおきて思ひ、思ひあまりて、
わが袖は草のいほりにあらねども暮るれば露のやどりなりけり
男は、寝ても覚めても女のことを思い、とうとう心の中で思っているのに耐えられず、
〈私の袖は草の庵では無いけれど、日が暮れるといつも露が宿ることだなあ。(日暮れになると、あなたに逢えない悲しみの涙で袖はびしょ濡れなのです。)〉
日暮れになると、悲しくなるのは夜は恋の時間帯だからである。涙を「露」にたとえるのは、ありがちである。しかし、敢えてそれを言う時、「露」がどこに生じたものかにオリジナルを感じさせる。「いほり(庵)」にたとえて、わびしさを表す工夫をしている。これは、自分は実感でもあるのだろう。
ここまでくると、男は、敢えて失恋を味わい尽くそうとしているようにさえ思えてくる。やれるだけのことをやり尽くそう、この思いに浸りきろうと。これが恋に生きることなのだと。
コメント
女と二人、朝露を眺められたらいいのに。独り寝の男のまつげの先に光る涙は
露置く草の如く濡れそぼり袖を濡らす。夢で会うことすら叶わない女を夢にも現にも思い続け、ここまで思い尽くせば自分の気持ちの落とし所も見つけられるのでしょう。今の自分の姿を案外冷静に捉え切れているあたり、なぜ、あの女にあんなに夢中だったのだろう?と思う日もそう遠くなさそうです。
後悔しないのが恋という考えもあります。この男ならフラれるのも恋と思うのではないでしょうか?
恋は恋の数だけ様々な顔をしています。優劣は付けられません。
恋しなければ失うこともありませんものね。優劣はつけられない、桜も菫も芙蓉も萩も、どれも美しく、愛おしい、それぞれの良さを一つ一つ胸に留め置く、と。何となく納得しました。いつ、何時も誰かにときめいている。現代人など足元にも及ばない感受性を備えていたのでしょう。中毒性の浮遊感、高揚感。身が持たなそう。
〈恋に生きる〉とはこういうことなのでしょう。『伊勢物語』はそれを見せてくれます。
我々がどう生きるかの参考にはなりそうです。まねるかどうかは、ひとまず置くことにして。
袖が濡れる歌はほんとにたくさんあるんですね。
その中で庵ですか。詫びしさを感じられていつもと違った感じがしますね。
この男は恋に生きる人になりきってますね。なりきり君です。
平安時代の貴族は経験が乏しかったのでしょうか?歌の題材が限定されていますね。
コミュニケーションのためには、限定された題材の方がいいのでしょう。