昔、「忘れぬるなめり」と、問ひごとしける女のもとに、
谷せばみ峰まではへる玉かづら絶えむと人にわが思はなくに
この女性は、ストレートな物言いをする。〈あなたはわたしのことを忘れてしまったように見えるわ。〉と言う。「ぬる・な・めり」は、完了・断定・視覚的推定の助動詞。「な」は、〈なり〉の連体形〈なる〉の撥音便〈なん〉の〈ん〉の無表記。「問ひごと」は、〈問いただすこと〉。つまり、女は男の気持ちを問い詰めてきたのである。はっきりした性格なのか、教養に欠けるのか。
さて、男はどうするか。ストレートな物言いにストレートの答えるのは、いいやり方ではない。うっかりすると喧嘩になる。やはり歌がいい。言葉は、贈り物である。凝った言葉こそ思いを伝える。
〈谷が狭い状態で(「谷せばみ」)峰まで生えている(「はへる」)蔓のようにずっとこの仲を続けていきたい、切れよう(「絶えむ」)などと、あなたに対してわたしは思わないのに。〉
「谷」のたとえは、二人の関係を暗示している。つかず離れずの関係ということだろう。よく古文の授業では、〈形容詞の語幹+み〉が原因理由を表すと教える。ここなら、〈狭いので〉という意味だと。しかし、これでは母語としての語感に合わない。これは、形容詞〈狭し〉の動詞化である。「せばみ」で、〈狭い状態になって〉の意。
「はへる」は〈生えている〉。「玉かづら」は、植物の〈蔓〉。ここまでが「絶えむ」の序詞。蔓が伸びるようにあなたとの関係をずっと続けたいという思いも表している。「絶えむ」の「む」は未確定の助動詞で、ここでは意志を表す。〈切れよう・通わなくなってしまおう〉の意。「人」は〈君〉に対して、距離感が感じられる言葉。男は敢えてそれを使うことで、〈そんなことを聞くあなたが遠く思えますよ。〉と伝えている。「わが思はなくに」は、〈わたしが思わないのに〉で、〈なぜあなたはそんな風に思うのですか?〉と女を少し責めた言い方。
実はこれも万葉集に元歌がある。
「谷せばみ峰にのびたる玉かづら絶えむの心わが思はなくに」
ただし、これは東歌である。この女はストレートな物言いからして、地方の女であろう。だから、それにふさわしい歌にしたのだろう。元歌との違いは、「人」が入っているところにある。そこに、男の思いが表れている。〈私はあなたを思っています。そんな風に責めてはいけませんよ。〉と多少抗議している。抗議も、恋のスパイスになるのだ。
コメント
「あなた、私と別れるつもりなんでしょう?」相手に「そんな、別れるなんて、思いもしていないよ」と言わせるために
わざわざ言ったのでしょう。女の無茶振りすら可愛いということなのか、、
谷の間を埋め尽くさんとばかりに繁茂する蔓、その勢いは峰まで達するかと思うほど。こんなに強い縁の、どの隙に誰かの入る余地があるものですか。君、わからないかなぁ、とそっぽを向いて歌って見せて、横目で拗ねた女の様子を伺っている。男の方に余裕を感じますね。
ここにも、歌を詠まない女への語り手の批判が見えます。こんな不躾な物言いじゃいけないという。
しかし、男はそんな女にも優しい。きっと、すいわさんがおっしゃるように、「可愛いヤツ」といったところなのでしょう。