ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。「かかる道は、いかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文かきてつく。
駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
「ゆきゆきて」で、旅愁を振り払うようにどんどん先に進んでいったことを表す。「駿河の国」とあることで、前段に比べると更に遠くまで来たことを示す。
「宇津の山」は、具体的な地名を示すと共に、〈鬱〉を連想させる。草木が生い茂って気分が晴れないことを思わせる。そして、実際にそのような様子であることが書かれている。「すずろなるめ」は、思いもしない嫌な目。嫌な予感がするのである。そんな時に、「修行者」が表れる。「修行者」は、〈すぎひゃうざ〉と表記されるけれど、発音は〈シュギョウジャ〉。仮名遣いによる。「修行者」が主語で、〈修行者がひょっこり現れて、私たちに出会った〉という意味。
「いまする」敬語を使っていることから、身分関係がわかる。一行は、この場所にはおよそ似つかわしくないのである。「見し人なりけり」は、〈修行者は何と見知った人であったよ。〉の意。「けり」は、事実の確認である。ここはそれに感動が伴っている。心細い時にさぞほっとしたことだろう。その思いを表す。
最初に「京に」とあるのは、まず京が思い浮かんだからである。
「駿河なるうつの山辺の」は「うつつ」を導く序詞。〈私は、とうとう駿河の国の宇津山のあたりまで来ました。その「うつ」で、「うつつ」(=現実)連想しました。現実にも夢にもあなたに会わないことに気がつきました。あなたはもう私のことを忘れてしまったのでしょうか。思っていてくださるなら、夢に出てきてくれるはずなのに。〉
コメント
季節は初夏位でしょうか、秋ならば蔦や楓も色付いて華やぐ気持ちにもなるでしょうけれど、繁茂する草ぐさは行く手を阻むものでしかなく、煩わしさがかえって都への懐かしみになり、蔦の絡まるように執着を断ち切れない。そんな時にまたしても都と繋がりのある、都へ戻るであろう人に会ってしまったら、気持ちを綴った歌を託さずにはいられない。
こんなにも思っていたら、女の夢に自分の姿が現れていまいか?そんな時に歌が届いたら、少しは自分を思い起こしてくれないものか、という感じなのでしょうか。忘れるための旅なのに思いは募るばかりですね。
自分がこれだけ思っているのだから、当然女の夢には自分が現れているはず。なのに女が自分の夢に現れないのは、女が自分を忘れてしまったからだろう。男はそう思ったのでしょう。
旅は、どうも恋を忘れさせてはくれないようです。むしろ一層思いを強くしてしまうもののようです。男はそのことを思い知ったのでしょう。