第一段 その三

 男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
 春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず
となむおいつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。

 そこで、男は着ていた狩衣の裾を切って、歌を書きおくる。この行為は、何を意味しているのだろうか。男は適当な紙を持っていなかったのであろうか。そんなことは考えにくい。なぜなら、筆は持っていたからである。これは敢えてそうしたのである。つまり、狩衣の裾を切ったのは、歌の内容にふさわしい「用紙」を選んだのである。
 春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず
(春日野の紫草を染料として乱れ模様を摺りだした「しのぶずり」の、その乱れ模様ではありませんが、紫草のように美しいあなたに私の心はどこまでも乱れてしまうのです。)
 古歌の趣旨を踏まえた歌である。それを「心ばえ」と言っている。(みちのくのしのぶもじぢずりのように心が乱れ始めたのは誰あろうあなたのためなのです。)
 男は、今の中高生の年齢である。それが見事に一人前に恋の作法を実行して見せたのである。それを「おいつきて」と言うのだ。「おいつく」とは、「生い着く」で、大人の仲間入りをするの意。なるほど、現代でも中高生にもなれば、恋心の一つも抱くかも知れない。しかし、大事なのは、それをどう表現するかである。恋には恋の正しい作法があるのである。それを身につけることが必要なのだ。でなければ、恋は進展しない。
 ここでまた「昔人」と今一度、昔を強調している。「昔」には今にはない良さがあるというのだ。それを忘れてはならない。それに学ぶべきだと言うのだ。その良さとは「いちはやきみやび」をすることである。「いちはやし」とは、激しい。一途だの意、「みやび」は、上品で優美なこと、風流の意で、男の恋の振る舞いを言う。一途で積極的であると評価しているのだ。ただ、評価の対象は、それに留まらない。むしろ、男が若くしてそれをしたことにある。元服は形式的なもの。恋をしてこそ、大人のだ。それも恋の作法に則った恋ができてこそなのだ。「いちはやき」は、成人してすぐにという、その素早さをも意味している。それを排除する理由が無い。「初冠」を使い、それを「初冠(す)」とサ変動詞にして印象づけているのもそのためである。
 この恋が成就したかどうかは語られていない。しかし、この段の明るさが恋の成就を暗示している。それをなし得たのは、歌の出来である。
 こうしてみると、仮説は今のところ見当違いではなさそうだ。しかし、仮説の正しさを証明するにはまだまだ例が足りない。以下、検証を続ける。

コメント

  1. すいわ より:


    古典ってモノクロで文字が並んでいる、といった印象でした。
    こういうのを解釈と言うのでしょうね、一瞬にして色彩を帯びて、狩衣から切り取った、一片の絹に書き記すために筆に含んだ墨の香りまで漂ってきそうです。
    恐れ入りました。古典楽しいです。

    • 山川 信一 より:

      すいわさん、素敵な解釈です。狩衣の色や質感、墨の香り・・・想像は尽きませんね。
      時を超え、地域を超えて、人間の普遍の姿を表す言葉、それが古典なのです。
      作者の才の計り知れなさを思います。
      そんな作者と「あなたはこんなことをおっしゃっているのですね。」と対話するのが読むということです。
      私もそれが楽しくてなりません。

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