この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書《ふみ》を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許《もと》にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝《あした》目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計《たつき》に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の略《あらまし》なり。
「ここには、エリスのことが書かれている。あれだけ忙しい中でも、豊太郎はエリスのことを忘れなかったんだ。ちょっと意外だよね。だって、仕事にかまけてエリスのことを忘れたいと思っていたから。だから、これは違うんだ。エリスが毎日手紙を書いてきたので、忘れることが出来なかったんだ。」
「「え忘れざりき」という言い方に、出来れば忘れたかったという気持ちが見え隠れしているよね。」
「次に、最初の手紙の大体の内容が書かれている。
豊太郎がロシアに出発した日には、いつになく独りで燈火に向かっていることが辛くて、知人の元で夜になるまでおしゃべりをして、疲れるのを待って家に帰り、直ぐに寝ました。次の朝目覚めた時は、いちだんと独り跡に残ったことを夢ではないかと思ってしまいました。起き出した時の心細さ、こんな思いは、生計に苦しんで、今日の食事がなかった時にもしませんでした。これをどう思う?」
「エリスがどれほど心細い思いをしているかがわかるね。『万葉集』には、〈恋〉は「孤悲」と書かれているけど、まさにそれだね。エリス自身、離れたことで本当の気持ちに改めて気付いたんだ。自分がどれほど豊太郎を必要としているかが。」
エリスは毎日豊太郎に手紙を書いた。それには、精神的な余裕の無さが感じられる。確かに、寂しかったのだろう。でも、それと同時に豊太郎がこのまま帰ってこないのではないかと不安でならなかったのだろう。その不安が書かせている。豊太郎が言うように、自分を忘れなくするための手段でもあった。豊太郎を絶対に離すまいという執念も感じられる。
コメント
豊太郎が失職した時、頼もしい程の行動力を示したエリスとは思えない、心細さを訥々と綴った手紙。豊太郎が母を欲したのと同様にエリスも頼みとする父代わりの存在として豊太郎を手放し難いのでしょう。拙い内容の手紙、書き方を教えた豊太郎、エリスに気持ちがあれば、愛しさに早く戻らなくてはと思うところでしょうけれど、明らかに重荷と感じている。溜息が聞こえてきそうです。
エリスにとって豊太郎はもはや単なる父親代わりではありません。生きていくためになくてはならない伴侶です。
離れることで、いよいよそれがはっきりしてきます。自分にとって、豊太郎がどんな存在なのかをかみしめているのです。
そして、その思いを豊太郎にもわかってほしいのです。だから、手紙にしました。
豊太郎は、その気持に同情はしても、共感は出来ません。どうしたらいいのか、ただただ悩むだけです。「重荷」と割り切ることも出来ません。