あり所は聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりけり。
事情はわかったけれど、それでもなお男は諦めきれず、「憂し」(=つらい)と感じていた。「思ひつつなむありける」の「なむ~ける(「ける」は〈けり〉の連体形。)」は係り結び。「なむ」で文全体を強調することで、ここで文が切れることを示す。係り結びは、今で言えば段落みたいな役割を果たしている。男は女を一年経っても、忘れることができなかった。正月の梅の盛りに西の対を訪れる。立って見、座って見、何度も何度もあたりを見るけれど、女と過ごした昨年と似るはずもない。涙を流し、荒れ果てた(「あばらなる」)板敷きに月が傾くまで伏せって、去年を思い出して詠んだ歌。
月は、昔通りの月でないのか。春は、昔通りの春ではないのか。(「や~ぬ」は疑問を表す係り結び。「ぬ」は打消〈ず〉の連体形。)あなたを失った私の目には、すべてが違って見える。わが身一つがもとの身のままで。私のあなたへの思いは一年経っても変わらないのです。
と詠んで、夜が明けるまでその場にいて、泣く泣く帰ってきたというのである。
これは、身分違いの悲恋である。恋は常に自分にふさわしい身分の人とするとは限らない。理屈通りには行かない。ダメだとわかっていても恋に陥ることもある。だから、悲恋に終わることもある。しかし、悲しみを含めて恋である。その悲しみは、恋をした者にしか経験できないものである。
次の『徒然草』百三十七段はこれを踏まえている。
「萬(よろず)の事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情(=恋)も、偏(ひとへ)に逢ひ見るをばいふものかは(「かは」は反語)。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契り(=当てにならない約束)をかこち(=嘆く)、長き夜をひとり明し、遠き雲居を思ひやり、淺茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。」
恋は、こうして思い通りにならなかった昔を忍ぶことでもあるのだ。これも恋の味わいである。兼好は、『伊勢物語』を正しく学んでいる。
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