何故《なぜ》こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依《よ》れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己《おれ》は努めて人との交《まじわり》を避けた。人々は己を倨傲《きょごう》だ、尊大だといった。実は、それが殆《ほとん》ど羞恥心《しゅうちしん》に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論《もちろん》、曾ての郷党《きょうとう》の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云《い》わない。しかし、それは臆病《おくびょう》な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨《せっさたくま》に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍《ご》することも潔《いさぎよ》しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為《せい》である。
あたしの番だ。李徴の告白が核心に迫ってきた。このことが最も言いたかったんじゃないかな?
「李徴はこれまでとは矛盾するようなことを言い始める。これまでは、虎になったことは「生きものの定め」でどうすることもできないと言っていたのに、その理由に思い当たることが全然ないでもないと言い始めるの。でも、理由が思い当たるなら、なんではっきりと〈思い当たる理由がある〉と言い切らないんだろう。純子、わかるかな?」
「〈思い当たる理由がある〉と言い切ってしまうと、虎になったことに自分の責任が生じてしまうからじゃないですか?そう思われたくなかったから。」
「そうだね。あくまでも、これはどうすることもできない「生きものの定め」であって、そこは譲れない。しかし、敢えて謙虚に考えてみれば、こうも考えられるって言いたいんだね。」
「李徴は人間だった頃の自分を振り返るけど、その言葉について何か気が付いたことはない?」
「「曾ての郷党の鬼才といわれた自分」という言い方がいかにも李徴らしい。さりげなく自慢しているよね。」
「純子、「切磋琢磨」と「俗物の間に伍することも潔しとしなかった」って、どういう意味かわかる?」
「辞書によると、「切磋琢磨」は、「仲間同士互いに戒めあい、励ましあい、また競いあって向上すること。」です。「俗物」は「金銭や世間の名声を第一として、芸術や恋愛の情趣を解さない人。」とあります。「伍する」は、「肩を並べる。仲間に入る。」で、「潔し」は「未練がなくさっぱりしている。悪びれない。」とあります。」
「つまり、李徴はいずれにせよ人の輪に入って行かれなかったことだね。」
「李徴がそうしなかったのは、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為」だと言うんだよね。でもさ、その心と自分との関係はどうなっているんだろうね?その心を含めて自分じゃないのかな?でも、李徴はこう言いたいんだ。〈自分は悪くない。「心」が悪いんだ〉って。」
「見事な責任回避だよね。じゃあ、自分て何さ?」
「その「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」について考えてみよう。普通に考えればこれは逆だよね。つまり、〈尊大な自尊心〉〈臆病な羞恥心〉が普通。なぜこう言うんだろう?」
「まず、「臆病な自尊心」だけど、自尊心が強すぎて、先生に就いたり、詩友と切磋琢磨しなかったんだよね。それは、そのことで、才能の無さがバレたりして、自尊心が傷つくことを恐れたからだよね。だから、臆病なんだ。」
「「尊大な羞恥心」は、俗物を軽蔑して自分がそれに甘んじることを恥ずかしいと思う。自分をその程度の人間ではないと思いたい。その態度が傍からは尊大に見えるって意味だね。」
「なるほど、理屈は通っているね。すごい自己分析だ。」
李徴は、自分自身の弁解に勉めている。自分の正当性を何とか証明しようとしている。「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」だけど、あたしにもあるな。あたしの場合、「臆病な自尊心」の方が少し強い気がするけれど・・・。それにしても、〈自分〉って何なんだろう?〈自分〉と「心」は別なんだろうか?
コメント
自分自身の弁解に勉めている、という事は人と関わりを持たずに来たことは間違いだったと、李徴自身、分かっているのですよね。郷党の鬼才と自分で言うくらいだから、小さい時から才秀でていて、お前は特別、と言われて育ったのでしょう。常に特別な自分である事を望んで、でも、成長と共に世界は広がり、自分以外の人間の分母も広がる一方。「特別」であり続けることの限界を知ってもそれを手放せない。何故、そんなにしてまで自分を守るのか。人は支え合って生きていくものだけれど、李徴は「李徴」という、たった一人の世界の君主。支えられる事なく立ち続けなくてはならない。だから自分の「正しさ」が間違っていると認めるわけにはいかないのですね。自分からは逃れようもないのに。
その通りです。正論です。しかし、自分が傷つくのが怖い、だから、人との交わりを避けるというのは、李徴に限ったことではありません。
現代人の多くがそうではありませんか?だから、この作品は読者の心を捉えるのです。誰でもが「李徴」なのです。それを認めてそこから解決策を探りたいですね。
臆病な自尊心という言葉、すごくしっくりきます。
自尊心が臆病なんですよね。
自尊心がオドオドビクビクしてるのがみえます。
尊大な羞恥心もピッタリ。
羞恥心が尊大なんですよね。
辛い気持ちでいっぱいなのがよくわかります。
プライドの高い李徴の告白。
そんなふうに思ってたんだなあと、でもプライド高いからこうなんだなあと、
一歩前に出る勇気はなかったんだなあと思いました。
私たちも同じですね。
李徴の自己分析は見事ですね。でも、そこまでわかっていてそこから抜け出せないのはどうしてでしょう?
言い訳ばかりが上手で、自分を変える勇気がありません。
「じゃあ、そういうお前はどうなんだよ?」と言われそうです。
李徴は私たちの鏡ですね。