先生の話

 北都誠先生が次のような話をしてくれた。
「「僕」の話は、友人が語ったのを「私」聞いて語ったという形を取っています。なぜこんな複雑な構成にしたのでしょうか。「僕」の話だけで独立させることもできました。その理由の一つは、大人になっても忘れることができないほどの出来事だったことを伝えるためです。もう一つは、この話に客観性を持たせるためです。「僕」は時間を置いてこの話を語っています。そこには時間というフィルターが掛かっています。さらに、「わたし」という他者が介在しています。これによって、余計な主観が削ぎ落とされ、この話は客観性が増しました。あるいは、この過激な事件に落ち着きを添えたと言うこともできます。
 それにしても、友人(「僕」)は、なぜ今でもこの出来事をつらく思っているのでしょうか?恐らく悔いを感じているからでしょう。では、何に対して悔いを感じているのでしょう?夢中でクジャクヤママユを盗んでしまったことでしょうか?盗むことでそれを壊してしまったことでしょうか?この二つであれば、後者が圧倒的でしょう。しかし、それだけに留まりません。それは、ちょうのコレクションを自分ですべてつぶしてしまったことに対してです。なぜなら、それは少年の日を否定したことだからです。
 少年の日とは、自分が自然と一体になれた日々のことです。ちょうを物として分類・分析することなく、一つでいられた日々です。これをその時の感情で押しつぶしたことは正しかったのでしょうか?決してそうではありません。もしそうしなければ、「わたし」のように大人になってからでも、その世界に戻ることができたからです。したがって、友人(「僕」)は、どんなにつらくても、「少年の日」を守らなければならなかったのです。あの行為は一時の感情でした。とは言え、そこに追い込んでいったのがエーミールの悪意でした。友人(「僕」)はそれに負けたのです。「僕」は今でもそれを悔やんでいます。
 誰しもが子どものままではいられません。いつかは大人にならなければなりません。しかし、少年の日が作り上げた世界を全否定する必要はありません。それはちょうの標本のように大事に取っておけばよいのです。しかも、少年の価値観がいつも大人のそれと対立するものでもありません。むしろそれを包み込んでいるのが大人の価値観であるはずです。
 したがって、大人になることは、エーミールのようになることではありません。エーミールが代表しているのは、むしろ悪い大人です。それに対して「わたし」は望ましい大人です。少年の日を今でも心に持ち続けているからです。だから、友人(「僕」)も「わたし」に少年の日の思い出を話すことができたのでしょう。「わたし」なら自分の気持ちをわかってくれると思ったからです。この小説が「わたし」を登場させた理由はここにもあります。」
 その後、授業でもこの作品を扱った。しかし、少しも読みは深まらなかった。結局、どんなに夢中になっても犯罪はいけないということになった。そして、試験の問いは、登場人物の気持ちを説明させるものばかりだった。あたしは、自分の答えが正しいかどうかに自信がなかった。誠先生も国語の授業だとこんな風になってしまうのだろうか?

コメント

  1. すいわ より:

    北都先生が仰るように「私」というストーリーテラーを得る事で大人2人がまるで「少年の日の思い出」という映画を見ているような客観性が生まれていますね。どんなに辛い消し去りたい過去であっても、自分自身を切り離すことは出来ません。「僕」は「少年時代」を自らの手で手放してしまったけれど、蝶はサナギのように停滞する時があってもやがて羽化して蝶になる日が来ます。「僕」もその傷も受け止めて歩き続けてこそ、「僕」に辿り着けるのでしょう。人生のフィルムは回り続け友人である「私」と知り合う現在に至りました。サナギのまま「大人」になった「僕」が蝶になることを願ってやみません。

    • 山川 信一 より:

      「僕」が本来そうなるはずだって自分になれることを期待します。しかし、エーミールという悪によって、自ら粉々にしてしまった少年の日は二度と蘇っては来ないでしょう。まさに悲劇なのです。
      ヘッセは、この作品を通して、普段その本質を見逃してる大人の悪を告発したのです。少しでも「僕」のような犠牲者が出ないようにするために。
      読者は、この作品を通して、常識を超えた目を持てるようになるはずです。本当に許してはならないことが何なのかを知る目を。

  2. なつはよる より:

    初めて読んだときに、「あれ、ここで終わり?」と思ったことを今でも思い出します。回想部が終わった後に、わたしと友人が話をしている現在の地点に戻ってこなくてもよいのだろうか? 何だか、かぎかっこの片側が閉じられていないような気持ちになります。

    でも、もし戻ってきたら、二人はどんな会話をするのか? わたしは、友人に何か寄り添う言葉をかけられるのか? どんな言葉をかけてもらったら、友人は慰められるのか? 考えても思い浮かびません。

    逆に、友人の立場だったら、やっぱり何か言葉が欲しいと思ってしまいます。それが無理なら、寄り添ってくれていることが感じられる情景だけでも・・・

    ヘッセはそれを許しませんでした。大切すぎるほどに大切なチョウの標本をつぶしてしまうこの部分で終わることで、僕(友人)の価値観とエーミールの価値観、2つの世界の断絶は、決定的に救いようのないものとして印象づけられます。

    先生の、「2つの価値観は対立するものではないはず」というお言葉、とてもうれしいです。わたしもそのような大人に成長していけたらいいと心から思います。

    「盗みがいけない」というのは、この作品を読もうが読まなかろうが、もちろんいけないと思いますが、この作品のテーマとは関係ないと思います。もしヘッセがそれを書きたかったなら、クジャクヤママユの1つ前に語られたコムラサキのエピソードは全く必要なくなってしまいます。ヘッセは、コムラサキのエピソードで2つの価値観が相いれないことを丁寧に示しています。それがさらに発展したのが、物語の中心に語られたクジャクヤママユの大事件だったと思います。

    • 山川 信一 より:

      ヘッセが描きたかったのは、「僕」の救われない思いです。それを許さない世間の冷酷さです。それを前面に出すには、カギ括弧を閉じる訳にはいかなかったのでしょう。おっしゃるとおりです。
      私は試験が嫌いでした。それでも、私にとって授業は愛の行為であり、試験はラブレターでした。答案はその返事です。なかなかいい返事がもらえませんでした。本当はみんなに満点をつけたかったのに。
      今は試験をしないので、気が楽です。なつはよるさんのコメントは嬉しいです。しっかり読めていることがわかります。

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