その瞬間、僕は、すんでのところであいつののどぶえに飛びかかるところだった。もうどうにもしようがなかった。僕は悪漢だということに決まってしまい、エーミールは、まるで世界のおきてを代表でもするかのように、冷然と、正義を盾に、あなどるように僕の前に立っていた。彼はののしりさえしなかった。ただ僕を眺めて、軽蔑していた。
そのとき、初めて僕は、一度起きたことは、もう償いのできないものだということを悟った。僕は立ち去った。母が根掘り葉掘りきこうとしないで、僕にキスだけして、かまわずにおいてくれたことをうれしく思った。僕は、「床にお入り。」と言われた。僕にとってはもうおそい時刻だった。だが、その前に、僕は、そっと食堂に行って、大きなとび色の厚紙の箱を取ってき、それを寝台の上に載せ、やみの中で開いた。そして、ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。
「「その瞬間、僕は、すんでのところであいつののどぶえに飛びかかるところだった。」ってあるけど、是って相当の怒りよね。なんでこんな気持ちになったんだろう?」と、明美班長の問い掛けから始まった。
「それはエーミールが「僕」の一番痛いところを突いたからだよ。」と若葉先輩が答えた。
「一番痛いところって、何?」と明美班長が聞く。
「「僕」のちょうへの思いだよ。愛情と言ってもいいし、情熱と言ってもいい。要するにちょうへの思いのすべて。エーミールはそれを否定したんだ。」と若葉先輩が続ける。
「つまり、君なんかちょうを取りあつかう資格なんかないよって言ったんだ。」と真登香先輩が補足して言う。
「でも、その「取りあつかう」って言葉が気になるな。エーミールにとってちょうは物としてあつかうものだけど、「僕」にとっては違うんじゃないかな?」と明美班長が再び問い掛けた。
「そう、根本的にちょうへの思いが違う。エーミールにとっては、それは利用する物だから。あるいは、お金で置き換えられる物だから。でも、僕は違う。」と若葉先輩が答えた。
「自分のすべてを捧げてきたものだもの。」とあたしも言った。ここからは矢継ぎ早に意見が飛び出した。みんな物語の世界にのめり込んでいった。
「「僕」はその思いだけは譲れない。だから、「お前の態度こそ間違っているんだ。お前にそんなことを言う資格はない。」きっと、そう言いたかったんだ。」
「でも、盗みを働いてしまったので、そう言うことはできない。「僕」は「悪漢」だから。」
「エーミールは、正義を味方につけて、「僕」を痛めつける。「僕」を上から見下ろす。それはエーミールにとって、快感だったんじゃないのかな。」
「そうだね。圧倒的な優越感に浸れるものね。もしかすると、エーミールは、これこれはこれでよかたっとさえ思っているんじゃない?」
「その意味で「僕」はエーミールの餌食になったんだね。」
「「僕」は一度起きたことは、もう償いのできないものだということを悟る。その意味では、大人になったとも言えるわ。」
「お母さんは、いい人だね。「僕」のことをよくわかっている。こういうお母さんってなかなかいないよね。」
「その後の「僕」の行動が凄いなあ。食堂に行ったのは、自分の部屋がないから、ちょうの収集はそこに置いてあったんだね。なんで、ちょうをつぶしてしまったんだろう?」
「ちょうを盗んだことへの償いじゃないかな?」
「そうじゃないと思うな。「僕」にとって、盗んだこと自体より、それを引き起こした原因が頭に有ったんだと思う。」
「つまり、ちょうへの思いのこと?」
「そう、それに伴う自分の生き方のこと。それを否定したのよ。」
「二度と収集などしないという決意ね。ちょうを盗んだことへの償いじゃないんだ。」
「収集の箱をまるごと捨ててしまったじゃないのよね。ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまったって、徹底的だわ。怨念が籠もっているみたい。」
「これは自己否定じゃないのかな?それまで自分のすべてを捧げてきたちょうをつぶしたんだから。」
「一つ一つにきっと思い出があるはず。それを自分の指で粉々にしていく。」
「「僕」がつぶしたのは、自分の少年の日の思い出なんだね。言い換えれば、少年としての生き方・価値観ね。それとの決別の儀式だわ。」
「辛かっただろうな。読んでいると、「僕が」収集したちょうを一つ一つつぶしていく指の感触まで伝わってくる。」
「このことを大人になった今でもこんなに鮮明に覚えているだね。それくらい人生に影響を与えた出来事だったんだね。」
「人はこうして大人になっていくのかな。エーミールみたいに初めっから大人の子もいるのにね。子どもでいるのは無駄なのかな?」
「そんなことないんじゃない。むしろ、子どもの方がまともに生きていて、大人の方が偽りの生き方をしているんだよ。」
「そうかもね。でも、それがわかっている人って少ないんじゃない?だから、ヘッセはこの作品を書いたんだよ。少なくとも、このことを忘れないでほしいって。」
「それにしても、「僕」はこういう形で自分の少年時代を罰し、否定し、決別した訳だけど、それは正しい判断だったのかしら?」
「確かに盗みをしでかしたことで自分を許せなかったのはわかるけど、「僕」の自然に対する態度は間違っていない。その意味で大人になる必要はなかったと思う。その正しい判断ができなかったことが子どもだったんだね。」
「でも、大人になっても、こだわっているくらいだから、ほら、大人になったあ「僕」の言葉に「残念ながら自分でその思い出をけがしてしまった。」とあったよね。だから、それは無理よね。何が正しいかって凄く難しい。これも、ヘッセの問題提起ね。」
「ただ、この話を聞いている「わたし」は、そうじゃなかった。だから、今でもちょうの収集をしているじゃない?彼はまともな生き方をしてきた人かしら?」
「子どもと大人かあ!深い作品だったね。この問題は永遠のテーマだなあ!」
今のあたしは、「僕」なんだろうか?それとも、エーミールなんだろうか?少なくともこの小説を読む前のあたしは、エーミールだった。だから、この小説を読んだ時には、ここまでわからなかった。〈欲望のままに盗みを働いてはいけない〉くらいにしか感想が持てなかった。でも、大抵の子がそうなんじゃないかな?今の子は、誰しもが教えられたものを大人しく受け取って、その意味を疑うこともしない。そして、決まっていることを当たり前だと思い、ひたすらその中で生きていくんだ。そして、その中で少しでも上にいようと思うんだ。あのエーミールみたいに優越感を持とうとして。この小説を読まなかったら、あたしも自分がエーミールであることに気づきもしないし、その生き方に何の疑いも抱かなかっただろう。
コメント
予想通り「僕」の謝罪は受け止められることなく終わり、打ちひしがれた僕を母親は理想的な「大人」の態度で迎えてくれました。皆いつかは子供時代に別れを告げて大人になって行くものですが、大概はフェードアウト、それがいつだったか分からない。「僕」はこの事件をきっかけにカットアップされてしまった。クジャクヤママユと同じ鳶色の箱の中の蝶たちを潰す「僕」、ポケットの中に隠して粉々にしてしまった時を追体験しているようで、生きていない蝶に対して「あの時、ポケットの中でこんな痛い目に合わせてしまっていたのだ、ごめん、ごめん、、もう僕は二度と君たちに触れる事が出来ないようにしなくては」と身体はその行為で損なう所を見せつけて心はそれを傍観しているような何ともやり切れない場面で終わってしまう。現在の友人は自分の子供らの様子を見てかつて夢中だった蝶の収集を再び始めたのですよね。後悔する気持ちを持った「僕」だからこそ、断罪された少年時代の純真さに対する赦しは得られるのだと、蝶に触れる機会が訪れた事がやり直し出来る「サイン」なのだと思いたいです。
子どもはいつか大人にならなくてはなりません。しかし、大人になることはエーミールになることなのでしょうか?
また、こんな儀式を伴わなくてはならないとしたら、なんと残酷なことでしょう。
少年の日の思い出ってこんなに深い話だったのですね。
改めていろいろ考えさせられました。
愛するがゆえに犯してしまった子供の頃の一度の過ちが、僕の頭から一生離れない思い出になってしまいました。
僕に初めて取り返しのつかない出来事が起きて大人の世界に入って行きました。
子供の世界は自由で美しいですよね。
でも、大人の世界は法律や常識というものがあり、自由でなくなりますよね。
僕と蝶の関係は、一生、少年の日の美しい思い出のままなんだなあ、ガラスのケースに入ったままなんだなあと感じました。
エーミールは僕のプライドを傷つける発言をしたけれど、その後の僕の生き方にこのエーミールの発言は関係はなくて、蝶との決別は僕が自分自身が決めたことなのかなあと思いました。僕は自分を許せなかったのかなあと。
この小説は、生やさしい内容ではありませんね。救いのない悲劇です。
う~ん、「僕と蝶の関係は、一生、少年の日の美しい思い出のままなんだなあ、ガラスのケースに入ったままなんだなあ」はどうでしょうか?
「僕」はそれを粉々に破壊してしましました。それまでの自分の生き方と決別したのです。決別せざるを得なかったのです。