昔、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは
昔、男が、親王たちが行楽を楽しんでいらっしゃる所に参上して、竜田川のほとりで、
〈不思議なことが数々あったと言う神代の頃にも聞いたことがございません。この竜田川でこのように鮮やかに水をくくり染めに染めるとは。〉
「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「からくれない」は、韓国伝来の鮮やかな深紅色。「くくる」とは、くくり染め(絞り染め)にすること。紅葉の浮かぶ竜田川の印象を見事に表現している。〈もみぢ〉という言葉を出さずに、その美しさを表現しているところが上手い。『古今和歌集』秋下では、屏風絵を題にして詠んだとされている。それを実景を見て詠んだ話に変えている。こちらの方が歌の良さが引き立つ。
『伊勢物語』の構成から言うと、この段は間奏のような挿話であろう。恋の要素は感じられない。とは言え、業平の代表作とも言うべき歌を載せていることで、この物語の主人公が歌の名手であることを印象づけている。この歌で親王たちの気持ちを深く捉えたであろう。恋で鍛えた歌は出世の道具にもなり得る。
コメント
なんと豪華なインターミッション。色彩チャートで韓紅花を見てみると、それは鮮やかな深紅色。舞い散るもみじ葉は川面に踊り、手招きするよう。その流れは眺めやる人びとの心を掴んで離さない。恋の要素は織り込まれていないものの、この紅色に染まる高揚感は、恋のそれと呼応するように思います。
芸術が自然を模倣するのではなく、事前が芸術を模倣するのだとはよくも言ったものです。
この歌を詠んでしまったら、もう川の紅葉はそれ以前のようには見えません。
さすがに業平ですね。恋の高揚感に通じるとおっしゃるのもわかります。
竜田川は紅葉の名所なのですね。
私は紅葉が水面に浮かんでるのではなく、水面に紅葉の赤が映って赤いのかなあと思いました。弘前の桜が水辺を桃色にしているのを見たことがありますがこちらは深紅色なのですね。業平さんの歌をきいたら、みんな感受性豊かになるんだろうなあと思いました。感慨深くなりますね。
なるほど、紅葉が水面に映る様子とも読めそうですね。でも、ここはくくり染め(絞り染め)とあります。この表現は立体的な感じがします。
この歌は『古今和歌集』では、秋下にあり、詞書きに「竜田川にもみぢながれるかたをかけりけるを題にてよめる」とあります。「かた」は絵のことです。
弘前の桜が散った様子(花筏)ならどう詠んだでしょうね?