女ともの見てわらひけれはよめる けむけいほうし
かたちこそみやまかくれのくちきなれこころははなになさはなりなむ (875)
形こそみ山隠れの朽ち木なれ心は花になさばなりなむ
「女たちが見て笑ったので詠んだ 兼芸法師
姿こそ深山隠れの朽ち木のようだが、心は美しくしようとするならきっとそうなるだろう。」
「(形)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(朽ち木)なれ」は、助動詞「なり」の已然形で断定を表す。「(なさ)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(なり)なむ」の「な」は、助動詞「ぬ」の未然形で完了を表す。「む」は、助動詞「む」の終止形で推量を表す。
女性の皆さんの目には、僧としての私の姿が山奥に隠れて人目につかないところに生えている枯れ木のように見る影もなくみすぼらし見えるでしょうね。しかし、そんな私でも、心は心がけ次第で美しく立派にしようとするならば、いくらでもそうなるに違いないのですよ。とは言え、今は心も「朽ち木」のままですけどね。
作者は、女に見た目を笑われ、こう言いかえして戯れている。
この歌は、前の歌との関連から判断すると、祭りの場でのやりとりだろう。作者は、僧の身なりで参加したので、女たちから笑われた。その場にふさわしい服装があるからだ。女は男よりも外見に拘る。そこに男女の意識の違いがある。とは言え、女たちは悪意や軽蔑の思いを込めて笑ったのではない。ちょっとしたからかいである。一方、作者にしても、本気で言い返している訳でもあるまい。この場で「人間は見た目よりの心が大事です。」などと本気で道理を説くほど野暮ではないはず。それは、「なさばなりなむ(=私だってその気になれば、立派な心を持っちゃうんですけどね。はははっ。)」の仮定からもわかる。本気で言い返している訳ではない。これは戯れのやりとりである。しかし、多勢に無勢なので、一応、もっともらしい道理で対抗したまでである。この歌は、そんな男女のやりとりを生き生き伝える。編集者は、この点を評価したのだろう。
コメント
法師は華やいだ雰囲気の場に居合わせたのでしょうね。皆、気分も開放的になり、酔いも手伝ってか、普段なら心に思っても言わない言葉を遠慮なく口にする。「あら、こんな所に法師様がいてよ、ふふ」「まぁ、本当に!目立っておいでね、うふふ」そこで高らかに吟じて見せる法師。「今でこそ、ほら、この通り(頭を自らペチペチ叩いて)枯れた身ではありますが、奥山からこんな賑わしい場に罷り出て花咲かせるやもしれませぬよ!」どっと笑いの声が上がり宴は更に盛り上がる。軽妙に返して場を濁さない。法師が一本取りましたね。
男は女性から笑われると、侮辱されたと思う場合があります。しかし、それは誤解であって、女性が男性に向けた笑いは好意の表れなのです。兼芸法師はその辺りをちゃんと心得ていて、見事に切り返しましたね。男の私も見習いたい姿勢です。