《亡き父の歌》

これたかのみこの、ちちの侍りけむ時によめりけむうたともとこひけれは、かきておくりけるおくによみてかけりける とものり

ことならはことのはさへもきえななむみれはなみたのたきまさりけり (854)

ことならば言の葉さへも消えななむ見れば涙の滝勝りけり

「惟喬親王が、私の父(有朋)が生きていた頃に詠んだと思われる歌などがほしいと言ってきたので、書いて送った文書の終わりのところに詠んで書いた 友則
同じことなら言葉までも消えてほしい。見ると涙の滝がいよいよ勝ることだなあ。」

「(なら)ば」はあ、接続助詞で仮定を表す。「さへも」の「さへ」は、副助詞で添加を表す。「も」は、係助詞で強調を表す。「(消え)ななむ」の「な」は、助動詞「ぬ」の未然形で完了を表す。「なむ」は、終助詞で願望を表す。「(見れ)ば」は、接続助詞で条件を表す。「(勝り)けり」は、助動詞「けり」の終止形で詠嘆を表す。「たき」は、「滝」の意だが、「滾(り)」を連想するようにしている。
父は亡くなって消え失せたけれど、同じ消えるなら、父の歌までも消えてしまってほしい。なぜなら、残っている歌を見ると、涙の滝が滾るようにいよいよ勝ることに気がついたからだ。こんな悲しみには耐えられない。
この歌も故人のゆかりの物に引き起こされた悲しみを詠んでいる。何かの折に、形見がきっかけで故人を思い出すことがある。しかも、それが歌であれば、つらくなるほどの悲しみをもたらすことがある。歌とは罪なものだ。たとえ亡くなっても、歌が残っていれば、その人は生き続けるのだ。それが歌の力である。しかし、あまりのつらさに、思い出したくない、形見の歌など無い方がいいと願いたくなることもある。もちろん、故人を本当に忘れたい訳ではない。そう思いたくなるほど悲しいのである。この歌は、そんな屈折した心理を表している。編集者は、この心理を捉えた逆説的な表現を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    惟喬親王さまのご所望、さて、父上の歌、どれを選んでお渡ししたものか。あぁ、あの時の歌だ、こちらの歌では父上はこんな心情でいらしたのだ、と幾つもの歌を書き写すうちに、父の姿がありありとそこに見えてくる。落涙。しまった、最後の文字が滲んでしまった、、
    ことならはことのはさへもきえななむみれはなみたのたきまさりけり
    書き写した何首もの歌は横に連なり落ちる滝のように見える。親王様、どうかご容赦くださいませ、、

    • 山川 信一 より:

      友則の心に寄り添った鑑賞ですね。歌人ならいっそう歌からその人となりが偲ばれることでしょう。きっとこんな思いだったに違いありません。

タイトルとURLをコピーしました