《実らない稲》

題しらす   小町

あきかせにあふたのみこそかなしけれわかみむなしくなりぬとおもへは (822)

秋風にあふ田の実こそ悲しけれ我が身空しくなりぬと思へば

「題知らず 小町
秋風にあう稲こそ悲しいことだが・・・。我が身が空しくなってしまったと思うから。」

「秋」に「飽き」を掛けている。「たのみ」は、「田の実(=稲)」と「頼み」の掛詞。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「悲しけれ」は、形容詞「悲し」の已然形。「(なり)ぬ」は、助動詞「ぬ」の終止形で完了を表す。「(思へ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。
秋風に遭う稲は悲しいことだ。冷たい秋風に遭って上手く実らず、籾の中身が空っぽになってしまうからだ。しかし、それ以上に悲しいことがある。それは、あの人を頼りにする我が身である。すっかりあの人に飽きられて空っぽになってしまったと思うから。
作者は、上手く実らない稲に自分の身をたとえ、自分にはもう何も残っていないと訴えている。失恋による喪失感である。作者が小町(女性)であり、稲を「田の実」と言うところから考えると、せめて子でもやどしていればと思っているのかも知れない。
前の歌とは「秋風」繋がりである。「秋風」を題材にすればこうも歌えることを示している。実らない稲に「我が身」をたとえたところに独自性がある。悲しい「我が身」のイメージ化である。しかも、「あき」と「たのみ」を掛詞にしている。編集者はこうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「恋五」と思って読んでいるから、まず恋模様として受け取りましたが、「田の実」、見事なダブルイメージの歌なのですね。秋風を受けて揺れる稲穂は本来なら豊穣で喜ばしいはずなのに悲しい。何故?「わかみむなしく」で実りきれなかった稲の行く末を嘆く。結ばれたはずが実らなかった空しさ。実らぬまま「秋(飽き)」が来る。結ばれたからこその空しさ。秋風はいや増しに冷たく感じられた事でしょう。

    • 山川 信一 より:

      「秋」「田の実」とくれば、豊穣を連想します。しかし、中にはその期待を裏切って実らない稲もあります。まず、豊穣を連想させ、次にそれを裏切る。その落差を利用して、今の自分の悲しみを表したのでしょう。今の自分は中身の空っぽな籾だと言います。恋の過程を経ても何も残っていません。ただただ心の中にも秋風が吹いてきます。

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