《秋の田の稲》

題しらす そせい法し

あきのたのいねてふこともかけなくになにをうしとかひとのかるらむ (803)

秋の田の稲てふこともかけなくに何を憂しとか人の離るらむ

「題知らず 素性法師
秋の田の「稲」ではないが「往ね」という言葉も掛けないのに、何を嫌と言って離れているのだろうか。」

「秋の田の」は、「稲」を導く序詞。「稲」に「往ね」が掛かっている。「(かけ)なくに」は、連語で逆接の接続語を作る。「ないのに」の意。「(憂し)とか」の「と」は、格助詞で引用を表す。「か」は、係助詞で疑問・詠嘆を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「かるらむ」の「かる」は、「離る」に「秋の田」の縁語の「苅る」が掛かっている。「らむ」は、助動詞「らむ」の連体形で現在推量を表す。
秋の田では稲刈りが始まっています。苅った稲は次々に稲掛けに掛けられていきます。でも、私は行ってしまえという言葉をあなたに掛けていませんよ。それなのに、どうしてあなたは何を嫌だと言って私から遠退いているのでしょうか。
作者は、折からの稲刈りの作業に託して、自分から遠退いている恋人に戻ってくるように訴えている。
この歌は、恋の歌に「秋の田の稲」という題材を用いている点に新鮮さがある。また、次の点に工夫がある。「稲」に「往ね」を掛け、「かる」に「離る」と「苅る」を掛けている。「苅る」は、枕詞の縁語でもある。そのため、読み手には、新鮮さを感じつつ、こうした工夫を読み解く面白さが与えられる。編集者はそれを評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    秋の豊穣な稲田のビジョンが広がります。実ったものを刈り入れる事は喜ばしい事なのに自らの恋模様を重ねると、、
    私はあなたに一言だって「行ってしまえ」なんて言わないのにどうして何を嫌ってか私から遠ざかろうとするのね?
    正反対の、実った恋を刈り取られ失う歌になるのですね。詠み人は男性なのに歌の内容は女性目線。ここも逆転しています。技巧がふんだんに使われている上に見事に正反対のダブルイメージが構築されていて秀逸ですね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、実りの秋のイメージを逆転させましたね。ここを指摘すべきでした。実った稲穂を刈り入れるという喜ばしいことさえも、作者には「憂し」と感じられてしまう。見事な逆転の視点です。これぞ『古今和歌集』の歌ですね。

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