《忘れ草の種》

寛平御時御屏風に歌かかせ給ひける時、よみてかきける そせい法し

わすれくさなにをかたねとおもひしはつれなきひとのこころなりけり (802)

忘れ草何をか種と思ひしはつれなき人の心なりけり

「寛平御時御屏風に歌を書かせなさった時、詠んで書いた 素性法師
忘れ草は何を種にするのかと思ったが、それは薄情な人の心であったなあ。」

「(何)をか」の「を」は、格助詞で対象を表す。「か」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(思ひ)しは」の「し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「は」は、係助詞で主題を表す。「(心)なりけり」の「なり」は、助動詞「なり」の連用形で断定を表す。「けり」は、助動詞「けり」の終止形で詠嘆を表す。
これまで忘れ草は何を種として生えてくるのかと思っていたけれど、それは薄情なあの人の心だったのだなあ。それが種となって忘れ草が生え、それが私のことを忘れさせるとはなあ。
作者は、次の疑問を持った。恋人が自分のことを忘れるのは、恋人の心に忘れ草が生えるからであって、その種は何かと。そして、それが結局薄情な恋人の心であることに気づく。それで、これでは仕方がないと諦める。薄情な心にさせたのは自分なのだから。
前の歌とは「忘れ草」「つれなし」繋がりである。編集者は、(765)の歌も考慮している。「忘れ草」は、歌心を誘う題材なのだろう。屏風に書くにふさわしい歌も出来る。この歌の構文は「・・・は・・・けり」である。これは、この問題について長い間考えていて、ようやくその答えに気付き驚いたことを表している。なるほど、因果関係をそう言われれば、納得するしかない。編集者は、誰しもが考えそうな問題とその答えをこの構文で表した点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    二曲一双の屏風に四季図でも描かれていたのでしょうか。右隻第二扇に夏の絵、左隻第一扇に秋の絵。前の歌で忘れ草に霜置いて欲しいとあって「逆回りだ」と言ったのですが、季節を遡ると同時に忘れ草の生えた原因を求めて、その大元が自分にあると辿り着く皮肉。屏風も夏と秋で分たれていて繋がりの断たれてしまったことを想像しました。
    前の歌とこの歌では違うシチュエーションで歌は読まれているでしょうから、ここにこの歌を配置する編集者の腕前もさすがだと思いました。

    • 山川 信一 より:

      これが四季図に書かれたのなら、四曲二双だったかも知れません。と言うのは、次の歌も素性法師の秋の歌だからです。これとペアになって秋の歌として。ただ、その歌は「題知らず」とあります。やはり、この歌だけが屏風に書かれたのでしょう。
      編集者は、同じ題材による歌を並べて、異なるシチュエーションを想像させようとしたのでしょうね。

      • すいわ より:

        なるほど素性法師の歌が次に続くのですね。前の歌の忘れ草繋がりでこの歌を持ってきて、次は素性法師繋がりの秋歌を持ってくる事でひと繋がりに編集したのでしょうか。
        3つの歌のうちこの歌にだけ詞書がついているので単体でこの歌を見た時に詞書の意味を考えてしまいました。
        詞書付きの歌を敢えてこの位置に配置する事で「一連のもの」として意識させる、一つの物語を作り上げているのですね。

        • 山川 信一 より:

          素性法師のこの歌が寛平の御時に屏風に書かれたことは事実なのでしょう。しかし、それを敢えてここに書く何らかに理由があったのでしょう。なるほど、物語が生まれます。つまり、両隣の歌を屏風絵にしてしまうことかも知れませんね。歌集の中で幻の屏風絵を仕立てたのでしょうか。

  2. まりりん より:

    この歌でも、恋人が離れていくことに、何とか理屈をつけようとしていますね。そうやって自分を納得させるのでしょうか。忘れ草の種が、「つれない人の心」という発想が印象的です。屏風に描かれたということは、数多あった歌の中で「特選」として取られたのですね。

    先生、すいわさん。コメントが途切れがちで恐縮です。6月以降、仕事のペースが変わったり色々で、勉強が遅れています。今後も暫くコメントのペースが乱れると思います。すみません。。

    • 山川 信一 より:

      つらいことでも、何とか理屈がつけば耐えられることもありますね。その気持ちは理解できます。きっとそうなのでしょう。でも、忘れ草の種が「つれなき人の心」では、どうすることもできませんね。これでは、忘れられるのももっともですから。
      まりりんさん、お仕事やプライベートで何かと大変なのですね。お察しします。その中、こうしてコメントしていただけて感謝しております。どうぞご無理なさらないでください。私も、まりりんさんの気持ちが癒やされるような授業内容を心掛けます。学ぶって本来そうあるはずのものですから。それができないとしたら、私の責任です。

    • すいわ より:

      まりりんさん、ごきげんよう。お忙しい中クラスメイトの事まで思って下さり、嬉しく、有り難く思うばかりです!あぁ、共に学ぶ人がいると思うとモチベーションが上がります!
      たぶん、この教室は「学校」ではないから先生も毎日の「登校」を期待してはいらっしゃらないと思うのです。参加できる日に参加しても、何の支障もない。どこから読んでも楽しめる。古典が苦手な方なら「羅生門」や「走れメロス」の再読もお勧め。「学校」ではそこまで深読み出来ないだろう、と言うところまで読み解いて下さっています(あ、でも、通して読む事で見えてくるものもあります、特に『古今和歌集』)。
      忙しい合間にコーヒーブレイクのようにこの教室を覗かれてちょっとリフレッシュ、またお仕事頑張れる!という風な利用の仕方、アリだと思うのです。
      「学校」の生徒でいらしたまりりんさんには「広報活動」を是非(笑)
      「教室」で待っています! 

      • 山川 信一 より:

        すいわさん、優しいコメントをありがとうございます。まりりんさんもきっと喜んでくれると思います。

      • まりりん より:

        すいわさん
        ごきげんよう〜
        優しいお言葉をありがとうございます。
        すいわさんは、5年?6年?以上も毎日、授業に参加されて、本当に凄いです!
        お言葉に甘えて、出来る時だけ無理せずにのスタンスで行きますが、読むだけでもしようとは思います。やはり古今和歌集は、前後の繋がりを知ると知らないとでは、理解が全く違うと思うのです。
        せめて、すいわさんや皆さんに忘れ去られないようにはしたいです‼︎

        • 山川 信一 より:

          まりりんさん、それでいいと思います。「国語教室」は、学校の勉強とは違って強いられたものではありません。「勉強」と思ってしまうとつらくなります。これって、学校で身につけてしまった姿勢ですよね。学校が教える悪しき「隠れたカリキュラム」です。真面目な人ほど、その影響を受けてしまいます。でも、好きな時に好きなように学べばいいのです。私は、教師時代「楽しくなければ『国語』じゃない」と豪語して教えていました。それは今でも変わりません。楽しく行きましょう。

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