題しらす よみ人しらす
ゆめにたにあふことかたくなりゆくはわれやいをねぬひとやわするる (767)
夢にだに逢ふこと難くなりゆくは我や寝を寝ぬ人や忘るる
「題知らず 詠み人知らず
夢でさえ逢い難くなっていくのは、私が寝ないのか。あの人が忘れるのか。」
「(夢に)だに」は、副助詞で最低限を表す。「(我)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「寝を寝」は、慣用句で「寝る」の意。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(人)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「忘るる」は、下二段活用の動詞「忘る」の連体形。
現実は元より夢でさえもあの人に逢うことが難しくなっていく。一体なぜなのか。私が一晩中あの人のことを思って寝ないからなのか。それとも、あの人が私のことを忘れてしまったからなのか。
作者は、恋人に逢えないことを嘆き、夢でさえも逢えない理由をあれこれ考えている。ただし、恋人が自分を忘れたとは思いたくないのだ。
この歌は、前の歌と「夢」繋がりである。恋歌では「夢」に伴う思いは様々あり、しかも、読み手の共感を得やすい。そのため様々な歌が作れている。この歌は、夢に期待して眠ろうとするが、夢でも逢えない訳を考えてかえって眠れず、悶々とする姿を描く。これも普遍的な人の姿である。この歌は、構成がしっかりしている。まず、「だに」で限定し「は」で取り立てる。その上で、下の句は「や」を使った文を並べている。そのために歌の調べもいい。編集者はこうした内容と表現を評価したのだろう。
コメント
そもそも夢でさえ逢えないのは、自分が思い悩むあまり入眠出来ず、夢自体に辿り着けていないせいなのか、もしくは「あの人が私のことを忘れてしまった」からなのか。ここがすっきりしません。
素直に読めば詠み手の事を相手がもう既に忘れてしまったから、自分を思っていない為に夢にさえ現れることがない、ということなのだけれど、敢えて自分が眠れない事を先に言うことで「忘れられた」という認めたくない本当の理由から目を背けている風に演出をしたのか?
忘れられたと思いたくない気持ちをもう一歩前面に出して「私が寝ないせいなのか、はたまた相手が同じように『寝ること』を忘れているせいなのか」と思い込みたいのかとも思えてきて、、でも、相手が自分を思っていさえすれば夢には出てくるはず、やはり「私を忘れたから」、なのか、、。眠れない、、。
この歌は、夢でも逢えないことへの嘆きを、その理由をあれこれ考えるという姿を通して表しています。そこにこの歌のオリジナリティがあります。言われてみれば、思いに沿わない出来事に対してその理由をあれこれ考えることはよくあります。それは、恋愛でも変わりません。この歌はそれを捉えました。この歌では、夢で逢えない理由が自分にあるのか、相手にあるのかと考えています。それでは、自分にあればどうでしょうか?忘れていないことは明らかです。そこで、横になってはいるけれど、寝ていないのかなと考えます。こういうこともあるからです。しかし、相手にあれば、どうでしょうか?楽観的に自分と同様なのかとも思うかも知れませんね。しかし、『古今和歌集』では、楽観的に救いを求める心理はまず出てきません。ここは、あくまでも悲劇的に相手が自分を忘れているからと思っているはずです。ただし、これは認めたくありません。それが「人や忘るる」後に置かれている理由でしょう。この歌はそんな心理を捉えています。
夢でも良いから逢いたい人なら、歌謡曲の 夢で逢えたら ではありませんが、なるべく眠り続けようとする筈。自分は寝ていない というのは本当ではないでしょうね。相手から忘れられた事実を分かっていながら、認めたくない気持ちがよく表れていると思います。
夢の中で相手を待っているのに来てくれない。しかし、その事実を認めたくないから、寝ていないのだと思おうとしているのでしょうね。