題しらす もとかた
ひさかたのあまつそらにもすまなくにひとはよそにそおもふへらなる (751)
久方の天つ空にも住まなくに人は余所にぞ思ふべらなる
「題知らず 元方
私は空にも住んでいないのに、人は遠く思っているようだ。」
「久方の」は、「天つ空」の枕詞。「(空に)も」は、係助詞で強調を表す。「(住ま)なくに」は、連語で詠嘆を伴う逆接の接続後を作る。「(余所に)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「べらなる」は、推量の助動詞「べらなり」の連体形。
私は遠い空の上に住んでいるわけでもないのに、あの人は私のことを疎遠に思っているようだ。
かつては恋仲だったのに、今ではもはや何の働きかけもしてくれない恋人に対するぼやきである。
「大空は恋しき人の形見かは物思ふ毎に眺めらるらむ」(743)とあった。人は恋しい人を思う時空を眺める。それをもとに、この歌はその後の思いを詠んでいる。自分は空を眺めて相手を恋しく思っている。しかし、相手は自分を空に住んでいると思っているに違いない。そう言うのである。なるほど、自然な心理の流れである。考えを一所に留めないでその先まで及ぼす。編集者は、その作歌態度を評価したのだろう。
コメント
(かつては「果てしない空を見上げれば、そこにあなたの面影を思い描くばかりだ(743)」とあなたはおっしゃっていたのに)私は空に住まっているわけでもないのに、手の届かぬほど遠い存在だと今では思っているらしい。
なるほど、歌集の流れとしてこの位置にこの歌を置くのですね。訪れることのない男への気持ちを女性の立場で歌ったのかと思いました。そう読ませるよう編集したのですね。この歌単体だと男の位が上がって身分違いと女に遠ざけられて切ない、という歌に聞こえます。
この歌は、詠み人が女なら、男が訪れることのないことを恨む気持ちになりますね。すると、平凡な歌になるのではないでしょうか。ここは、詠み手が男であることに意味があるようです。すると、「天つ空」がすいわさんがおっしゃるように男の位が上がったことを象徴しているように読めます。すると、「身分違いと女に遠ざけられた」切なさを詠んだことになります。男だって、こんなフラれ方があることがわかります。
恋人は自分が空に住んでいると思っている、と思っている。人は空を眺めて恋しい人を思うのだから、遠い存在になってしまったとしても尚、自分を思う気持ちは持ったままでいてくれる筈、という期待が根底にはあるでしょうか。物理的な距離は遠くても、心の距離は近くであって欲しいと。
期待はもちろんあるでしょう。でも、この歌は、今更何を言ってもどうにもならないというぼやきでしょう。恋人の心は動かせなくても、嘘偽りのない今の思いを歌にしたのではないでしょうか?
期待は既に通り越して、諦め の境地に入ったわけですね。
きっと諦めは慰めでもあります。