題しらす 凡河内みつね
わかことくわれをおもはむひともかなさてもやうきとよをこころみむ (750)
我が如く我を思はむ人もがなさてもや憂きと世を試みむ
「題知らず 凡河内躬恒
私のように私を思うような人もいてくれたらなあ。それでもつらいかと世を試そう。」
「(思は)む」は、推量の助動詞「む」の連体形で未確定を表す。「(人)もがな」は、終助詞で願望を表す。「(さても)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(試み)む」は、推量の助動詞「む」の終止形で意志を表す。
私のことは私が一番よくわかっている。しかも、私に最も関心があるのは私であり、私を最も大切に思うのは私である。だから、私のように私を思ってくれる人がいてくれたらいいのに。でも、現実にはそんな人はいない。男女の心は懸け離れている。だから、恋はいつでもつらい。もしそんな人がいるなら、それでもつらいのか、男女の仲を試してみてもいい。しかし、実際にはそんな人はいないだろうから、もう恋をしようとは思わない。
作者は、恋のつらさを経験して、もう恋はすまいと思っている。
この歌は、恋をためらう人の普遍的な心理を表している。それが二つの「む」、「もがな」、「や」による係り結びによって、三十一音で見事に表されている。編集者は、以上を評価したのだろう。
しかし、この理由は屁理屈ではないか。恋は、相手が自分と違う気持ちでいることを前提に成り立ち、そこが面白いからだ。したがって、この歌は、この屁理屈への皮肉にもなっている。
コメント
自分に意識を向けると、なるほど相手の心を自分の都合に合わせることは不可能な事とあきらめるよりほかない。男女の間には(だけでなく他者との間には)埋め難い隔たりがある。恋に敗れ内向きに繭の中に閉じ籠った心。でも、、。理解し難いからこそ言葉を尽くして自分を知ってもらおうとするのでしょう。なりふり構わず曝け出し、恥ずかしい思いをするのが恋なのでしょうね。きっとまた、歌という言葉の花束を贈りたくなる。今は辛くとも。
恋の過程にはこういった内向きの心理状態になることもあります。この歌はそれを捉えています。恋は、自分の中に生まれて、恋の四季を経て、また自分の心に帰ってくるのでしょう。籠もる時期があるようです。だから、恋の歌は「五」まであるのでしょう。しかし、いつまでもそこに留まることもなさそうですね。
作者には申し訳ないですが、独りよがりな歌という印象を受けます。自分のことは自分が一番よく分かっているのは当たり前。例え恋人同士でも、親子でも、別々の人間ですもの。気持ちが違うのは当たり前。作者は、単に駄々をこねているのでしょうか。躬恒は、そんな子供っぽい人かなぁ。。?
言葉には、意味があります。たとえば、「嫌い」には、〈嫌い〉の意味があります。けれども、それとは別に、なぜそう言うのかという訳もあります。時には、それが〈好き〉を意味することさえあります。だから、この歌も同じです。こう言ったからと言って、躬恒が心からこう思っていたかどうかは別問題です。躬恒は、なぜこんなことを言うのでしょうか。その理由は、たとえば、「恋に破れた時、人は弱気になってこんな風に思うよね。でもさあ、それで恋を諦めるの?なら、おバカさんだよ。だって、こう思わせるのが恋でしょ。恋に浸ればいいんだよ。」だったりします。躬恒は、何しろ「心あてに折らばや折らむ初霜の置き惑わせる白菊の花」という歌を作る人なのですから、当たり前のことなんて言いません。