題しらす 藤原なかひらの朝臣
はなすすきわれこそしたにおもひしかほにいててひとにむすはれにけり (748)
花芒我こそ下に思ひしか穂に出でて人に結ばれにけり
「題知らず 藤原仲平朝臣
花芒を私こそはと内心思っていたが、穂が出て人に結ばれてしまった。」
「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(思ひ)しか」は、過去の助動詞「き」の已然形。「(結ば)れにけり」の「れ」は、受身の助動詞「る」の連用形。「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
花芒を結ぶように、この娘が大きくなったら、私のものにしようと内心思っていたが、穂が目立つように、成人してみたら、他人のものになってしまったことだなあ。
成立しなかった恋への嘆きである。
男なら誰しも、美しい少女がいれば、大人になったら自分のものにしたいと思う。しかも、男は自分が女の初めての男であることを願う。だから、恋は争奪戦になる。勝つのは一人だけで、その他のものは敗者になる。作者はその競争に敗れてしまった。他人のものになると、女の価値は下がる。今更、女に贈る歌は無い。恋のレースに破れたことを一人嘆くことになる。そこで、自分で自分を慰める歌が生まれる。歌にはそんな歌もある。この歌で、作者は女を花芒にたとえてイメージ化した。編集者は、その効果的なたとえを評価したのだろう。
コメント
せっかく美しい少女に心を寄せていたのに、もたもたしている内に人に先を越されてしまった。努力も足りなかったのか?
自分のモノに出来なかった嘆きと、自戒も込められているでしょうか。「芒」が寂しさをより強調しますね。
誰に言うわけでもない。しかし、歌にしないと収まらなかったのでしょうね。花芒のたとえが実らなかった恋を象徴しているようですね。
せっかく穂が出て花咲いても実らない「芒」。どれほどの時間を掛けて見守り続けたのか。気持ちを隠して隠しすぎて、思いを告げる事もないまま相手は他の誰かに靡いて結ばれてしまった。秋の枯れ野の寂しい風景がそのまま詠み手の心の内を表しているように思えます。
「花芒」のたとえは、巧みですね。「穂に出でて」が女が成人になることだけでなく、実らない恋、寂しい心も表していますね。