題しらす さかゐのひとさね
おほそらはこひしきひとのかたみかはものおもふことになかめらるらむ (743)
大空は恋しき人の形見かは物思ふ毎に眺めらるらむ
「題知らず 酒井人真
大空は恋しい人の形見なのか。どうして物を思う毎に眺められるのだろうか。」
「(形見)かは」の「か」も「は」も、共に終助詞で反語を表す。「(眺め)らるらむ」の「らる」は、自発の助動詞「らる」の終止形。「らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形で疑問を表す。
今はもういない、逢うことができない、恋しい恋しいあなたを思うと、思わず大空を眺めてしまいます。大空はあなたの形見なのでしょうか。もちろん、そんなはずはありません。なのに、どうして思いに耽る度に自然に眺めてしまうのでしょうか。
作者は、自分の行為に疑問を持ち、自分なりの答えを出してみたのである。
人は恋しい人を思う時、我知らず空を眺める。理由はともかく、これは人の普遍的な行為のようだ。殊更、新鮮な指摘とも思われない。しかし、最初にそれに気づき、言葉にしたのは誰だろう。この歌がそれであるかもしれない。編集者は、この普遍性の発見を評価したのだろう。
この発見から様々な歌のバリエーションが生まれる。それは和歌(短歌)に限らず、時代を超えて現代歌謡にも及ぶ。たとえば、中島みゆきは、『この空を飛べたら』で次のように歌う。「凍るような声で 別れを言われても こりもせずに信じてる 信じてる ああ人は昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにもこんなにも空が恋しい」
コメント
空を見上げながら、今はもう会えない人を思って無性に会いたくなること、ありますね。でも、何故かを考えた事はありませんでした。
昨年のNHKの朝ドラにも出てきましたが、服部良一氏の 大空の弟 も、戦死した弟を思い語りかける歌でしたね。
亡くなった人は空に帰ると思われていますね。単なる「空」ではなく、服部良一氏作詞の「大空の弟」で「大空」とあるのも、この歌に繋がっているのかもしれませんね。
千年前の発見に現代の私が共感していることに驚きを覚えます。この歌を知っているからそうするのでなく、きっと言葉も国も男女を問うこともなく全ての人がそうするのではないでしょうか。そう思うと「空」は「時間」と似ています。実体がそこにある訳ではないけれど、誰に対しても平等に全てを受け止め、その時のその人のありのままを映し出す。だから何某かの答えが欲しい時に果てしない空の青を求めてやまないのかもしれません。
空が時間を連想させる。そうかもしれませんね。どちらも、万人に平等に与えられ、圧倒的な存在感を持っていますから。いずれにしても、その普遍的な思いに言葉を与えることで、それは伝統になり文化になります。この歌にその一端を見ることができます。