題しらす よみ人しらす
かけろふのそれかあらぬかはるさめのふるひとなれはそてそぬれぬる (731)
陽炎のそれかあらぬか春雨のふるひとなれば袖ぞ濡れぬる
「題知らず 詠み人知らず
陽炎が有るのか無いのか。春雨が降る日の古る人なので、袖が濡れてしまった。」
「陽炎の」は、「あら」の枕詞。「(それ)か(あら)ぬか」の「か」は、どちらも終助詞で疑問を表す。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「春雨の」は、「降る」の枕詞。「ふるひと」は、「降る日と」と「古る人」の掛詞。「なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(袖)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(濡れ)ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「陽炎」「春雨」「降る」「濡れ」は縁語。
春の野の陽炎は、立ち上ったともそうでないとも見えます。その陽炎のように、私がお見かけしたのはあなたなのでしょうか、それとも違う人なのでしょうか、判然としませんが、やはりあなたなのでしょうね。春雨が降る日となったから袖が濡れてしまったように、昔馴染みのあなたに逢ったから涙で袖が濡れてしまいましたのですから。
昔馴染みの恋人に再会の感動を伝えている。
前の歌に引き続いて、恋の復活の予感を詠む。春になれば、陽炎が立ち春雨が降る。四季は巡り再び春が来る。そのように、恋が復活することもある。この歌は、掛詞や縁語を使い、春の訪れの喜びに再会の感動を重ねている。つまり、恋にも四季があると言うのだ。編集者は、その趣旨と巧みな表現を評価したのだろう。
コメント
春雨の降る頃ともなって、こんな日はあなたの事が思い出されます。あなたの姿を見かけたような気がして涙にくれています。幻のように今は遠くなった昔の恋。あれは本当にあった事なのか、、、?
雨の日、陽炎は立ち上らない。だったらあれはやはりあなただったのだ。声をかけられなかった私、春雨が袖を濡らしています。
掛詞、縁語の巧みさは勿論ですが、春雨のスクリーンにかつての恋が映し出され、幸せだった時へと誘われます。またあなたと、とは言っていないのに再びの春を期待させます。
「春雨のスクリーン」に映し出されたかつての恋。素敵な鑑賞ですね。ただ、「またあなたと」とは、はっきり言っていませんが、「古人なれば」とは、それを意味していますね。
昔の恋人と、偶然にばったり再開したのでしょうか。
あらっ、むかし愛したあの人? そう思った途端に過日の二人の思い出が走馬灯のように脳裏に(春雨のスクリーンに)よぎり、思わず涙が溢れてしまいました。。
恋にも四季があるという発想が素敵です。一度終わった恋も、また巡ってくる。本当に恋が復活したら、感動は一入ですね。
人間も自然の一部ですから、恋に四季があっても不思議はありません。命そのものは、四季を繰り返すことはありませんが、恋ならその可能性がありますね。春という季節にそんな予感を感じたのでしょう。